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滞在期限まで、あとわずかだった。
数えられるほどの日にちを実際にカレンダーで指折り確認しながら、ももは荷造りをし、不動産にアパルトマンの鍵を返す準備をしていた。荷物を増やさぬ努力の甲斐あってか、大きな旅行鞄におおよその荷は詰めこみ、あとは機内持ち込みのボストンバッグでまかなえるだろうというところだった。
だが、三か月もフランスにいたのだ。部屋はすでに借りたときの状態に戻りつつあったが、少なからずももの生活感が出始めていたそこに、すっかり愛着が湧いていた。
パリ左岸の小さなアパルトマンの四階。独り住まいにはちょうどいい一LDKの出窓からは、アジア人街の穏やかな活気が感じられる。けして景色がいいわけではないが、人々にとってのパリの暮らしが臨める、またとない物件であった。
御歳何歳になるのかわからぬ窓枠は戸を開け放つたびにキイキイと気味悪い音を立てたが、リノベーション済みなのか壁はアイボリー色に塗られ、こざっぱりとした心地のよい印象だ。
窓から見下ろした角にはベトナム料理屋があり、いつも常連客で賑わっている。反対側にはファーマシーがあり、何度も何度も世話になったものだ。
しばらくここを離れていたからか、はたまたここから離れていくからか、その景色はいつもよりも、ももの目をの奥をツンとくすぐった。
ジャン=クロードによれば、今日にでも絵画が届くだろうとのことだ。
ひとしきりのたそがれを終えると、なんだかんだ沙希や家族への土産でパンパンになってしまった旅行鞄をリビングの端に移動させて、ももはドアベルが鳴るのを待った。
日本に直接送ればいいものの、なぜ、アパルトマンに持ってくるよう頼んだのか。
飛行機での手続きを考えれば、物憂さも少々ある。それでも、何日も離れ離れになる前に、このフランスという地で彼の絵を眺めていたかったのだ。彼女のものになった、彼の絵を。
だが、ジーッという時代を感じさせるベルが鳴ってやって来たのは、配達員でも、画商でもなく、画家本人だった。
「どうして……」
伸びていた髭が、さっぱりなくなっている。無造作に散らかっていた髪も記憶の中よりかは短くなり、ワックスで撫でつけられた前髪がひと筋、こめかみに落ちていた。
立ち尽くすももを、画家は逞しい腕で自分の胸の中へ閉じこめた。言葉はない。だが、背を抱く力の強さに、ももは彼の感情の揺らぎを感じとった。途端、全身の力が抜け、チップを渡すために持っていた財布が情けない音をたてて、ポーチに転がった。
「ムシュー」
大きな手のひらが彼女の背を撫で、その形を模るように頭蓋を包みこむ。かろうじてこぼれた声は男の厚い胸板に吸い込まれた。
モモ、と掠れた男の声が耳を愛撫する。愛を喪った男のそれとは思えぬほど熱く、それでいて、胸が焦がれるほどに儚い音色だった。
「行かないでくれ」
たった一言、だが、ももが求めていたなによりの言葉をシモンは彼女に与えた。ももの双眸から涙があふれ、シモンのセーターの胸元を濡らす。
「シモン」
なんと呼んでよいのかわからず、何度かの浅い呼吸のあとやっとのこと彼女はその名を紡ぐことができた。震えた唇からこぼれた吐息はまるで魔法のように彼女の胸を熱くする。青々とした大地と、熟した男の香りと、その奥に微かに残るテレピン油の匂いが彼女を包み、ももは気がつけば必死になって大きな背に手を伸ばしていた。
愛してはならないと、決して愛しはしないと誓ったはずだのに、熱く膨らんだ想いを止めることは、もはや不可能だった。
どうして彼を受け容れないでいられよう。どうして、彼を求めずにいられよう。
ももの胸からあふれる感情はまるで激しい川の流れだった。セーヌの悠然とした流れなど可愛く思えるほどの、強く、荒く、激しい感情の濁流……。
シモンはそれを受けとめ、そうして、その流れよりもはるかに大きな感情とともに彼女を抱きしめた。
「パリにいたとき、私はまだ二十歳やそこらの若者だった。恐れるものはなにもなく、ただひたすらに絵を描き、夜の街を渡り、少し眠っては、また絵画に没頭する日々を送っていた。いい時代だった。なにもかもが手に入ったし、なにもかもが自由だった。そんなとき、画家仲間の友人に紹介してもらったのが、彼女だった」
出窓に二人で寄り添い、彼女の髪を梳かしながら彼は語った。必要最低限の家具しか置かれていない部屋に、彼の声はしんとほどける。だがひとつもこぼさぬようにももは耳を傾けていた。
「ひと目で私は恋に落ちた。まるで不死鳥の尾羽のように艶やかなブロンドと、なにも恐れぬ強気なまなざし。それでいて思慮深きグリーンの瞳は、そのころ私がまさに求めていたものだった。何枚も何枚も彼女を描いたものだ。飽きることもなく、寝る間も惜しんで。やがて結婚し、美しい妻を描くことが私の生きがいだった。だが、幸福な生活が長く続くことはなかった。妻は私を《《裏切った》》。そして、裏切ったまま死んでいった」
遠くに、サイレンの音がする。パリの喧騒は二人を世界からは完全に隔絶しえなかった。
ももの脳裡に、白い女の姿が過ぎる。シーツにあられもなく放り出した豊満な体。そして、精彩を欠いた色のない瞳。死してなお彼女は彼のミューズであった。
男のかさついた指先を感じながら、ももはもう片方の彼の手を握った。
「私は許すつもりだった。だが、彼女の方が耐えきれなかった」
シモンは淡々と続ける。
「そこから私は酒に溺れ、ときには危ないこともした。ほぼ屍のような状態だったよ。そして、あるとき、ジャン=クロードがやってきた。『祖父のアトリエにでも行ったらどうだ』と、半ば無理矢理、私をあそこへやった。それからは、君の想像するとおりだ」
静かに声が落とされていく様は、まるで完成された物語を諳んじるようでもあった。
一人の画家の栄華と頽廃。そして、希望と絶望。
「私はしばらく絵も描けず、放心状態だったが、豊かな自然と時間がそれを解決してくれた。少しずつ、筆を握り、記憶の底に眠っていたジヴェルニーの風景を描き始めた。悠々と流れるセーヌ、傾いだ家屋、色を変える大聖堂や、モネの庭も。以前と変わらぬように、いや、より大胆で繊細な表現ができるようになっていた。だが――」
そこに感情などもはや見出せぬほどによどみなく続いた物語が不意に止まる。髪を梳く手も宙に浮かんだままだった。
「人を|描《えが》くことはできなかった」
彼が描いた数々の風景画――穏やかなセーヌ川畔、目映いほどの丘、森閑としたヴェルノンの街並みに雨にくゆる豊かな森。それらが一気に蘇り胸を熱く切なく膨らませていく。
窓から射し込んだ光に、床の影が伸びていた。大きく、ひときわ濃い影だった。
「情けないことに、逃げたんだ、私は」
声色に自嘲を滲ませたシモンに、ももは首を振った。
「逃げてない。あなたは、逃げてないわ」
彼は彼を守ったのだ。かつて、もも自身がそうしたように、彼は自らの心を、命を絶望から救ったのだ。
彼の手は大きく、ももの手ひとつでは包み込むことができない。それでも、彼女はきつくそれを握り、そしてもう片方の手を重ねた。身を寄せ合った二つの影は、一つになり、侘しいアパルトマンに彩りを生む。なにもかも芸術であり、そのすべてが美しかった。
シモンは彼女の手を握り返すと、頭蓋に添えていた手を優しく引き寄せて、彼女の髪に唇を落とす。そうして、彼女の名を呼んだ。
「モモ」
なあに、ももはその音色に身を委ねる。
「私はまだ、昔のように絵は描けないだろう」
それが、なんの問題になろう。もはや、彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。目の前の男を愛していたのだ。そして、その男が描く絵を尊んでいた。
「かまわないわ」答えたももに、シモンは微笑み、やおら小さくかぶりを振る。
「それでも、君のために絵を描きたい。君と生きていくために」
その日、シモンは彼女のもとで一晩過ごし、それから次の日の朝早く出ていった。ジヴェルニー行きの一枚の切符をテーブルの上に残して。

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