第四章 太陽に抱かれて 5

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 厳かな廊下を進み、やがて暖炉と中央に革張りのソファのある部屋に案内された。窓には緞帳がひかれ、天井からは目映いシャンデリアが吊るされている。
「逃げるのか」
 ジャン=クロードはアール・ヌーヴォーの美しい陶器のカップに紅茶を注ぎながら言った。
 微かに立ち上った湯気から、ダージリンの華々しい香りが鼻腔を擽る。
「軽蔑しますか」隙のない所作を眺めながらももが言葉を返すと、ジャン=クロードは、いいや、と注ぎ口の紅茶を切った。
「砂糖は?」
「いいえ、結構です」
 |よろしい《bien》、と小さく呟いて、カップをももに寄越す。メルシー・ボク、とももが恭しくそれを受け取ると、彼は唇の端を微かに引いた。
「パリを発つのは?」
「少なくとも、来週には」
「なるほど。チケットは取れそうかい」
「ええ」
 静かにももは答える。
「バカンスもとうに終わっていますし、日にちと時間を選ばなければ、エール・フランスの直行便が取れるかと」
 琥珀色の水面に軽く息を吹きかけて、小さく口をつける。唇にふれる瞬間、よりいっそう甘く華やかな香りが掠める。だが、次に訪れたのは苦味だった。
 ジャン=クロードは父親のような顔で、だが、その実さして興味のない様子で、それはよかった、と言った。
 厳かな空気が漂っていた。重々しい緞帳は城主の手によって窓の端にくくりつけられたが、アンティークの調度品たちは秋の陽射しにここぞとばかり瞬いている。カップのはらをさりげなく撫でて、そのなめらかさを味わう。白い陶器の中で、一等の琥珀がその美しい色彩をたたえている。
「逃げることは立派な戦略のひとつだ」
 ジャン=クロードが窓辺に立ち、外を眺めながら独り言のように言った。ももは、顔を下に向けたまま、目だけで彼を一瞥した。
「|獰猛《どうもう》さ、あるいは、|果敢《かかん》さを称える風潮は、はるか昔に終わったからな。いまや我々の前には|幾重《いくえ》もの道が連なっている。そのうちのひとつを選びとるだけのこと」
 ジャケットを脱ぎ、ベスト姿で腕を組んだその立ち姿はひどく様になる。それこそ、まるで彼がジャン=クロード・ベルジュラックという画商であり、ひとつの作品であるように。
 窓の向こうになにが映っているのか。ジャン=クロードの碧い瞳が静かに下を見下ろしている。カンボン通りに面した窓だろうか。だとしたら、真下にはのんきな観光客の姿が行き交うに違いない。ももは再び、カップのはらを撫でる。
「ただ」
 ジャン=クロードが静かに言った。
「逃げた先が底なし沼じゃ、かなわないなと思ってね。本当に、どいつも、こいつも」
 珍しく唸るような声に、ももは瞠目し顔を上げた。
 外を見ていたはずの瞳が、鋭い光を放ちももの双眸を射抜いた。
「沈むかもわからないのに、船体が波に揺れただけでとち狂った人間は海に飛び込もうとする。あたかも、それが最善だと思ってな」
 心の|裡《うち》を見透かすような視線であった。シモンのようなささやかな優しさも温もりもない、厳しくも、確かな、まるで絵画を見定める職人の眼。
「だが、飛び込んだ先になにがある?」
 うすく、にびやかな日差しが男の頬を照らす。顔の左側には、重く影がかかっている。
 ごくり、固唾を呑んだももに、やがて男はたおやかに笑んだ。
「人間が変えられるのは未来だけだと思っていますか、モモ」
 優美すぎるその完璧な笑みは、あたかも大聖堂でマリア像を見上げているような心地にさせた。まったく、|敬虔《けいけん》なクリスチャンでもないというのに。
「過去も、変えられると言うのですか」
 たどたどしく細切れにももが紡ぐと、窓際のマリアは笑みを深め、その美しさを際立たせた。
「あなたがとてもよく知っているはずですよ」
 音も立てずに、ジャン=クロードはもものもとへ歩み寄る。
「あなたは、わたしが過去を手にしているといいました」
「ええ」彼は頷いた。
「今も変わらず、紛うことなく、あなたの手の中にある」
 シモンの手とは違う、まさしく商売人の小綺麗な手がももの白い指先をとる。
「シモン・ロンベールという男と初めて出会ったときと、彼の中に影を見出した今、あなたの中にどのような変化が起きているのか。いや、あの男と出会う前と今、と言ったほうがより懸命か」
 恭しくその指先をなぞり、手のひらを開かせ、それからやわく包み込む。
「モモ」
 ジャン=クロードの碧眼がももを射抜いた。
「ほかではないあなたが一番よく知っているはずだ」
 胸が小刻みに震え、情けのない吐息が唇から漏れる。そして、白い頬に一筋の涙を落としながら、わかりかねたように、あるいは、そのすべてを手にしたかのようにももは悲痛な表情を浮かべた。
 ジャン=クロードは小さな手をそっと撫で、また、ガラス細工を扱うようにして彼女の膝に戻すと、ふと口元を緩めた。

「それで、今日はどんなご用で?」
 いつもの貴族然としたジャン=クロードが現れ、ももは唇を噛みしめ、一度瞳を伏せてから答えた。
「ある画家の絵を、買いに」
 色素の薄い睫毛が緩やかに揺れる。
「ほう、それはいかような画家でございましょう」
 もったいぶった物言いだが、それでいて嫌味でない洗練された雰囲気に、彼が一流の画商であることを感じさせる。ももは濡れた頬を指先で拭い答えた。
「ジヴェルニーに住む画家なんです。孤独で、優しく、あらゆる影を美しく|描《えが》く、唯一無二の画家です」
 ジャン=クロードの目が大胆に細められる。
「マドモワゼル、お目が高い。では、どちらにいたしましょう?」
「雨のヴェルノンの街並みを。それから、西陽がたっぷりとそそぐ、ジヴェルニーの丘も」
 震える声で、だが、はっきりと静かな城に響かせてももは言った。口にするたび、そして、彼の絵を思い描くたび、胸が熱く膨らんでいくことを感じながら。
「部屋に、飾りたいんです」
「左様で。きっと、すばらしい窓になることでしょう」
「ええ、すばらしいんですよ」
 その想いを隠すことなく、ももはジャン=クロードに泣き笑いを浮かべた。
「マドモワゼル、どちらへお届けに上がりましょう? ホテル、それとも、日本に送りましょうか」
 ももはかぶりを振った。そして、はっきりとした声で言った。
「パリ七区のアパルトマンまで」

 画廊から帰る道すがら、ももはノートルダム大聖堂に向かうことにした。メトロに乗ってトルビアック駅まで帰るのもいいが、寄り道もたまにはいいと思ったのだ。ヴァンドーム広場から、チュイルリー公園に向けて歩き、それからルーブル美術館を横目にセーヌ沿いの大通りまで出る。
 寒空が広がっていたが、晩秋のパリは美しかった。
 色付いたマロニエの街路樹を進み、ポンデザールが見えてくる。|燦々《さんさん》と光を浴びる歴史の橋には、大勢の人が見えた。ブロロロ、というエンジン音に、水を切るバトー・パリジャン、|川縁《かわべり》で芸を披露する大道芸の音楽が鳴り響き、そこかしこで笑いが溢れている。
 かつて恋人たちが愛を誓ったという橋の向こう、サント・シャペルの細長い尖塔や大聖堂の双塔を眺めながら、ももは携帯をとりだして、沙希に電話をかけた。
「もしもし?」
 珍しく舌ったらずな声が響いてくる。
「あ、沙希?」
「ん、おはよう」
 日本は早朝だ。そういえばそうだったと時差を思い出して、早くにごめんね、と謝るももに、沙希は低い声で、「で、どうしたの?」と先を促した。
「たいした用事じゃないの」
「たいした用事じゃなくて、こんな時間にかけるかな、普通」
 たしかに! ももはひとりでに笑った。急に笑いだした友を、「なに、お酒でも飲んだの。まさか、変な葉っぱとか吸ってないでしょうねぇ」と沙希は訝る。
 ごめんごめん、ももは肩を揺らしながら、くっと笑いを抑えて携帯を握りなおした。
「大丈夫よ。なんだか、沙希の声が聞きたくなったの。沙希と、話したくなったの」
 笑いのために折り曲げた体を起こすと、美しいパリの景色が双眸に飛び込んだ。ハッと息を呑むほどに荘厳で、思わず体を抱きしめたくなるほど、切なく、儚く完璧なまでの|郷愁《きょうしゅう》がももの胸の|裡《うち》をやわくくすぐる。
「ねえ、沙希」
 大きく息を吸い、パリのからりとした空気を胸に留める。
「帰ったら、ごはん、食べに行こう」
 なにいきなり、と沙希は訝る様子を隠さなかった。足もとへ一度視線を落として、うす汚れたスニーカーの爪先をちょんとあげたあと、ふふ、とももは笑う。やがて、「ま、こんなことも珍しいから、たまにはいいけどさ」と沙希のほうが降参した。
 大きなあくびをこしらえる音に目を細めながら、ももは辺りを見渡した。彼女と昔、心弾ませながら歩いた街を。そして、今なお夢の象徴である、華やかな都を。なにもかもがあり、そして、あらゆるものがあのころのまま、パリは今日も息づいていた。
「で、とびきりの日本料亭でも押さえておこうか?」
 聞こえてきた声に、「和食かぁ」とももは呟く。
 沙希はグルメ雑誌の編集部に勤めているため、かなりの食通だ。彼女に任せておけば、ハズレはないだろう。だが、ももは秋風にさらわれた髪を耳にかけ直しながら、「だったら、お茶漬けがいいな」と続けた。
「え、そんなのでいいの」
 驚く声が届く。ももは迷わず、うん、と肯いた。
「あ、でも、だし巻き卵も食べたい。だしのよく効いた、熱々ふわふわの。そこへすり下ろした大根を盛って、しょうゆを垂らすの、最高じゃない?」
 想像するだけで口の中が潤い、笑みが止まらない。
「じゃあ、居酒屋ってことか」
 沙希はあくびを拵える。
「そうかも」
 肩を揺らして笑う。
 電話口の向こうで沙希が「それで」と声を整えた。
「本題はなにかしら、伊賀利さん」
 ももは止めていた脚を動かし始めながら、ひとつ息をついた。
「沙希には敵わないわね」
「何年一緒にいると思ってんのよ」
「それもそうか」
 しっかりと地面を踏みしめながらももは進む。マロニエの葉が鳴り、車がすぐ横を通り抜けていく。セーヌの流れは悠然で、どこまでもどこまでも続いていく。
「あのね」
 ももはゆっくりと切り出した。
「もう一度、学んでみようと思うの」
 心の裡がすっと空いた。スッキリしすぎて、かえってむず痒いくらいだった。
「好きねぇ、勉強」と沙希が目を回す様子が目に浮かぶ。ももはツンと痛んだ鼻をすすり、もう一度パリの大好きな香りを吸い込むと、前を向いた。
 前から家族連れが歩いてくる。両親に挟まれ、手を引かれて宙にぶらりと浮きあがる男の子は、満面の笑みを浮かべていた。寒々とした色彩の町並みに、鮮やかな色が生まれる。なんと明るく、豊かで、あたたかな、幸福の色!
 目の奥が熱くなる。視界が滲む。
 ああ、なんて、なんて美しいのだろう。
「ま、いいと思うけど」
 沙希が続ける。
「で、今度はなにを?」
 家族連れがそばを過ぎ、ももは濡れた目元を手の甲で拭い、凛と顎を上げて答えた。
「そうね……|芸術《アート》を」

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