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思えば、あの丘に初めて訪れたときから、絵を描く男の姿に焦がれていたのだろう。ならば、あの心の揺さぶりが恋だったのか――いや、あれは、そう容易く表現できるものではない。そんな、もろい感情ではなかった。だが、それがその瞬間から恋や愛などというはっきりとした恋慕とは限らなくとも、その種はきっとすでにそのとき蒔かれていたのだろう。好きだと思う感情よりも先に抱いた、「もっと見ていたい」「この瞬間を逃したくない」「逃してはならない」という強い衝動の根底で、根を張り、芽吹き、いつのまにか見えぬところで花が咲いていた。いや、見て見ぬふりをしてきたというのが正しいか。
そして、|驟雨《しゅうう》の降る日、彼がカーテンのこちら側へ飛び込んできた瞬間から、ももの中でなにかが変わった。その繊細さと情熱、そして光と影を操る感性に焦がれ、彼の筆によって永遠にカンヴァスに刻み込まれたい。彼の絵の中で生きられるのならば、《《命など惜しくもない》》と思うほどに。
そうして二人は少しずつ、互いの身を寄せ合った。示し合わせることもなく、自然と、影がそっと溶け合うように、二人は寄り添った。
彼女の傷にふれ、その傷をなぞり、優しく包みこむシモンをどうして愛さないでいられよう。
愛がなにを与えたか、彼女はそれを知りながら、それを拒絶するふりをしておきながら、シモンをどうしようもなく愛してしまった。そして、今もなお愛したいと思ってしまっている。
ただ、彼のそばにいることが幸せだった。彼のそばにいると、自分が自分らしくいられる気がした。
しかし、同時に、今さら恐ろしくなった。彼を愛し、そして、失うことが。ほとんど愛し方すらわからないというのに、感じたことのない遥かに大きな感情を抱きながら彼にすべてを求め、曝け出すことが。
思えば、恋愛とは、彼女にとって諦めの日々であった。愛し愛されるという幸福からはほど遠く、互いを情という鎖で縛りつけていたようなもの。相手に期待しなければ傷つくことはない。多くを望まず、寄りかかることもせず、常に自分の足で立っていれば、なにかあってもまたすぐに立ち上がることができる。
優しい女でいなくちゃ。聞き分けのいい彼女でいなくちゃ。そうしたら、愛してもらえる、と。
シモンは特別だった。そして、彼の前にいる彼女自身もまた、特別だった。
ためになる意見を言おうと偉ぶることも、好きでもないものを好きと言うことも、好きなものを素知らぬふりして隠すこともない。言葉がでなくなったときですら、ただ優しさに包まれていることのできる、ただ一人の人間になることができたのだ。……
パリは相変わらず人が多かった。
サン・ラザール駅を出て、十二番線のメトロに乗る。ゆるやかに景色の流れる国鉄とちがい、メトロはトンネルの中を進み、|饐《す》えた湿っぽさが鼻をついた。小さな箱に入れられて暗闇の中を運ばれていく。必死で携帯の画面に食い入る人や大きなヘッドホンをつけてリズムを刻む人、新聞を読んだり、本を読んだり、はたまた、バイオリンとともに乗り込んで演奏をし始める人がいたり。すっかり、夢から醒めたようだった。
メトロの駅から地上に上がると、冷たい空気が頬を殴った。ウールのコートを羽織った会社員たちや、時代にとらわれないエレガントな印象のマダム、それから、薄着の観光客たちが往来を行き交い、車や自転車が横を駆け抜けていく。マロニエの葉は枝から落ち、華の都パリと謳われるその誰もが一度は憧れる街並みは、冬支度をほとんど済ませているようだった。
愛が欲しいと歌うシャンソン歌手と、まるでうさぎのように無邪気に跳ねるコントラバス。その向かいではハンチングをかぶった小粋な老人が口髭を揺らしながらアコーディオンを奏でている。哀愁に満ちたその音色はきゅっと胸を掴んで全身の力を奪っていく。だが、耳障りなサイレンが遠くからそれを阻んだ。
パリとは実に猥雑な街だ。なにもかもがそこにある。ときには、ありすぎるほどに。だが、同時に、肝心なものがないようにも感じた。その肝心なものがなにか、心にぽっかりと空いた穴を埋めるなにかを、もはやここに来て、ももは探そうともしなかったが。
腫れぼったい目元を押さえて、往来を進む。歴史ある軒並みを眺めながら大通りから一本わきに入ると、ももはある場所を目指して歩いた。
観光客が白を基調としたショップバッグを持って歩いている。ほのかに香ばしい秋の香りではなく、洗練されたパリの香りがした。そうして白亜の道を進み、ももは一軒のアパルトマンに入った。
コン、コン、と茶けたスニーカーが階段を上がる。白塗りの壁よりもくすんだ自分の足は、この荘厳なオスマニアン様式のアパルトマンには不釣り合いだった。だが、今ではその早くも年季の入ってしまったスニーカーがもものお気に入りでもあった。
足を止めることなく一段一段踏みしめ、やがて、階段を上り終えると、バロック調の美しい飾りの中で、瞬く金字がももの目に飛び込んだ。
ひとつ深呼吸をして、真鍮の取っ手を握る。だが、一瞬考え込むと、ももは取手を離して、鞄の中から一枚のカードを取り出した。しっとりとした黒地のカードに、これまた金色の文字。
『ギャラリー・ベルジュラック』と綴られたそれは、まさしくその城の主を思わせた。
またひとつ息をついて、ももは精緻な細工の施された真鍮に手を伸ばす。
キィィ、と蝶番の音が上品に鳴り、ももが画廊へ入ると、一人の女性が彼女を出迎えた。
ボンジュール、にこやかな笑みは、決してももを値踏みすることもなく、完璧な慇懃さを称えている。髪はシルバーブロンドで、赤いルージュがよく似合ういかにも洗練されたパリジェンヌの装いだが、微笑みの節にどこかジャン=クロードを思わせた。
ももは丁寧にあいさつを返し、彼女に名刺を差し出す。彼女はそれを一瞥すると、にっこりと笑みを深めて、「どうぞごゆっくり」とももを受け入れた。
足の裏を柔く包む絨毯がこそばゆかった。絵画を保管するために管理された室温と、また、画城にふさわしいビロードのマントを下ろしたような空気は、ももの細胞を細かに呼びおこした。
ラスキンやロセッティなどのラファエル前派を思わせる修道女の絵画や腕のない彫刻、あるいは精巧なギリシア神の石膏、ひとつひとつをその目に灼きつけるように作品を見て回る。先に先客がいたようだが、誰もが目の前の|芸術《アート》に魅入られた観客であり、また、同時に透明人間でもあった。
作品群は古典から近代に移り変わる。ラフなタッチの風景画や人物画が増え、部屋の雰囲気がガラリと変化した。それはまるで荘厳な貴族サロンから、農村の田畑に飛び出した爽快さであった。やわい草を踏みしめて、青い風を感じ、やがて、ももは一枚の絵画の前で立ち止まった。
一面の白。
「その昔、実に愛情深い男がいましてね」
静謐な声が届く。
「美貌の妻のことを愛し、男は妻を描くのに夢中だった。寝る間も惜しみカンヴァスの前に立ち、絵筆を握り、油で色を溶く。それこそが彼の幸福であり、生きがいだった」
そっと後ろに現れたジャン=クロードを振り返らずに、ももは絵画を一心に見つめていた。
真白に花を散らすブロンドの髪、青褪めた肌、そして、精彩を欠いた瞳。
「そんな彼を人々は、類い希なる眼を持つ男だともてはやした。色彩はまるでここにはない楽園のように富み、彼の手によって生かされた人間は、この世で一番美しく、また、至上の幸福を手に入れた、と。だが、その栄華は長くは続かなかった。彼は彼の唯一の|女神《ミューズ》を……」
一幕のオペラのようにそこで言葉を切って、隣にシワひとつない艶やかな漆黒の肩が並ぶ。
「マドモワゼル・モモ。ようこそおいでくださいました」
|恭《うやうや》しく手を差し出し、やおら振り向いたももの手をとり、軽く口づけを落とす。美しい金糸が揺れ、冴えた碧眼がまみえた。
その双眸がはっきりとももを貫くと、彼はやわく微笑をたたえて、「どうぞ、こちらへ」と彼女をエスコートした。

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