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辺りはまだ、薄っすらと宵のヴェールを纏ったままだった。
シモンの寝息を確認してそっとベッドを抜け出すと、ももは足音を盗んで洗面所へと向かった。電気もつけず、微かに窓から注ぐすみれ色の明かりを瞳に浴びる。澄んだ空気は横っ面を叩くかのように鋭い冷たさだった。
体が温もりを失う前に支度をする。顔を洗い、サッと髪をとかして乱雑にまとめると、鏡の中の女は泣いていた。ひどい顔、小さく呟いた言葉は夜明け前の空気に吸い込まれていった。
黒いタートルネックのニットと細身のジーンズを身に纏い、首元にはレースライラックのストールを。ここへ転がり込んだ日の、もとの自分に戻ったわけだ。どことなく沈んだままの気持ちを抱いて、ももは支度を終えるとアトリエに出た。
淡い光が少しずつヴェールを引き上げている。だが、冬に近づいたジヴェルニーはまだまだ宵の中だ。
グランジの厚手のカーディガンを羽織り、必要最低限のものしか入らないポシェットを肩からかける。もはや、やるべきことはない。
大きく息を吸い込むと、黴びたアトリエの匂いがした。相変わらずこの画家の城は散らかっている。ももがいくら片付けたとしても、ものの一時間で元どおりだ。早いときには、三十分。いや、十分だったか。机の上に散乱したチューブと、木炭と、それから、油を溶くための小皿と。絵画のための道具であふれかえっている。
目の奥がツンと痛んだ。その痛みを刻むように瞳を閉じると、すっかりももは静寂に飲まれていた。
夜がはっきりと明ける前の丘は、誰もかもが消えひっそりとした湖畔だった。その優しさと温もりと、息苦しさとを抱いて、ももは喉に痞えたなにかを飲み下す。
目を開くと、微かな光さえもひどく目映く思えた。画材に埋もれた机から紙切れと鉛筆とを拾い上げ、書き置きをした。日本に帰ること、服や物は処分してほしいこと、それから、世話になった分のお金は《《いかなる手段》》を使ってでも必ず返すこと。それらを書くのにもう辞書は必要なくなっていた。
ありがとう、と最後の言葉を書き終えて筆を置く。糸が切れたように全身の力が抜けた。
そのとき、低く掠れた声がももを呼び止めた。
「行くのか」
間仕切りの布の向こう、大きな影が映っている。全身が震え、目の奥からなにかが溶け出すような気がした。
その影を抱きしめてしまいたくてたまらない。その影とひとつになって、溶けてなくなってしまえたら。愛しいとは果たしてこういうことなのか。燃えるような感情の果てに胸を握りつぶしされるような痛みを覚えて、ももはその声に応えることなく。男の城に背を向けた。
アトリエからでると、いっそう冷たい空気がももの頬を打った。
もはや、冬が訪れていた。
サン・ラザール行きの列車に乗り、ももは|滔々《とうとう》と流れ行く景色を眺めた。日が昇り、寒さからか辺りは霞んでいる。午後の目映い光に満ちたジヴェルニーもたいそう美しいが、今だけは、この白くくゆる景色が慰みだった。
朝霧の中をたゆたうセーヌはその流れを止めることはない。彼女もまた、その流れに乗ってしまった。
左肩に触れる窓枠が、少しずつ熱を奪っていく。
ももは過ぎゆくジヴェルニーを眺めながら、雨上がりの森を思い返した。
バライチゴを摘んだあと、二人は泉を訪れたこと。泥濘の中、足元を泥だらけにしながら森を進むと、小さな泉があった。泉といっても、湧き出した水が溜まった、少し大きな水溜りのようなものだ。魚がいるわけでも、小鹿が水浴びをしにくるわけでもない。それでも、霧立つ森の中に突如現れたそれは、やはり神秘さを醸し出していた。
かすな水のせせらぎを感じながら、ときおり木々を野鳥が渡り、枝をリスが走るのをただ眺める。なんてことのないひとときだった。
空から落ちる葉が小舟となり水面をたゆたう。やがて透明な水の底に積み重なり、秋の色に泉を染めていく。いつものように、彼らの間にほとんど会話はなかった。会話など必要なかった。しっとりとした空気が彼らを包み、互いの存在を感じながら、呼吸をする。ただ、それだけで十分だった。ももだけではない。きっと、シモンもそうだったように思う。
まさに、その泉の澄んだ水底で、魂の底で、手を取り合っているような……。
雨が上がり、木漏れ日の間から射した光が、シモンの頬を照らす。かすかな光だった。それで、十分だったのだ。
だが、その光を浴びているときさえ、彼は過去の夢を見ていたのだろうか。
一抹の影を描くとき、彼は光を夢見ていたのだろうか。
それを考えるたび、腹の底で渦巻くのは醜い感情だ。
浜辺に立つ彼の|女神《ミューズ》を見た瞬間の、目の前のカンヴァスを引き裂きたくなるような激しい衝動と、瞳孔をツン、と針で刺して、すべてなかったことにしたくなるような、そこはかとない絶望を、ももは忘れもしない。今でも、彼女の肌の下で醜い嫉妬は渦巻いている。
あのとき、ももが慄いたのは、あの光溢れる絵画のあまりの美しさではなかった。そこに込められた想いに、情熱に、慈しみに、そして、自分の中で、彼を自分のものにしてしまいたいという重い欲望が渦巻いていたことに、気がついてしまったからだった。
「|あらあら《オー・ララ》、|どうかしたのかしら? 《ケ・ス・キリ・ヤ》」
一人の貴婦人が茫然と窓の向こうを眺めるももの前に座った。
くるりと巻いた白髪に、幾重ものしわの刻まれた顔。かなり歳を召してはいるが、その声はしっかりしている。
ももは声をかけられて意識を取り戻すと、そこで、自分が泣いていたことに気がついた。
「みっともないところをお見せしてごめんなさい。ちょっと、感傷に浸ってしまって」
気にしなくていいのよ、とマダムは言った。
「窓から外を眺めていると、なんでもかんでも、通り過ぎてしまうような気がするものね」
なんて情緒不安定な女だ、内心自嘲する。そっと背を撫でてくれるようなマダムの言葉にももはやわくはにかんだ。情けない顔であった。
「パリへお仕事かしら」
「いえ、これから、国に帰ろうかと思って」
「あら、バカンスの終わり?」
にこにこ、笑みを絶やさない彼女に、ももは眉を下げる。
「ええ、夢の終わりです」
そうだ、まさしく、夢のような毎日だった。シモンの絵画に囲まれ、ただひたすら、風や光、あるいはセーヌの|調《しらべ》を感じる。あれ以上、なにもいらないと思うほどに。
「すてきな時間を過ごしたのね」
「そうですね。とても、豊かな時間でした」
思い出すたび、涙が溢れてしまう。自分の中のタガが外れて、堪えてきたものすべてがぽろぽろと剥がれ落ちるように。いや、それこそ、水を注ぎつづけたコップからすべてが溢れていってしまうようだったかもしれない。もはや、止めることなどできそうになかった。
「あなたを帰すのが惜しいわね。どうしても、行かなくちゃならないかしら?」
お茶目に笑ってハンカチを差し出すマダムに、ももは泣き笑いを浮かべて、こっくり、頷く。
「愛してはならない人を、愛してしまったんです」
彼のそばにいてはいけない。
ももは頬に伝った涙を拭って、じっと、列車の行先を見据えた。

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