第四章 太陽に抱かれて

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 光に満ちた、海辺の風景であった。
 小さく船の浮かんだ海原に向けて、一人の女性が歩んでいる。さんざめく水面、黄金色に冴えた地面。画面右方は宵の|残滓《ざんさい》を感じさせる|幽《かす》かな|淡墨《うすずみ》のヴェール。太陽こそその実体がそこにはないものの、やさしく、そしてはげしく視線を奪う絹の陽射しの中に彼女は存在していた。
 その身を太陽色に染めた、美しい|女《ひと》。風に舞ったガウンに彼女の|躰《からだ》の流線が浮かび上がり、その神秘的な肉感を我々にもたらす。堤防の際には、白い猫が彼女とその向こうにいる創造主を見つめていた。

 ああ、溢れんばかりの光!
 その色彩のなんと濃密で甘美なこと!

 まるで、ミルクに蜂蜜をたらしたかのように淡く鮮烈な|黎明《れいめい》の中、彼女はたしかに太陽に抱かれている!

 背を向けた女のまなざしから息遣い、それから風に舞う艶髪の香り、すべてを鮮明に感じとることができる。
 彼女は太陽の寵愛を受けた女神だ。神々しいまでに美しく、つい手を伸ばしてみたくなってしまうほどに、生々しくその女たる|馨《かぐわ》しい色香を放つ。

 ももはその一枚の絵画を前に、自身がどこにいるのかを見失った。そして、あろうことか気がつけばその女神の庭に立っているではないか!

 画家が一心にその太陽の恋人を見つめながら、イーゼルの向こうに立っている。男の上体ほどのカンヴァスは横に倒され、逞しい腕の愛撫を受けている。まるで髪を梳かすように、あるいは、風を孕んだ白いシルクを撫でるように、繊細に絵筆がカンヴァスの上で生を受けて動き回る。

「シモン」

 潮騒のさなか、女の声が聞こえる。
 ウィ、と短く返事をしながら、画家は悠然たる仕草で真珠色をパレットからとり、カンヴァスに載せる。

「シモン」

 女の声はまるで風にそよぐすずらんのようであった。目映い光を幾重もはね返しながら、ガウンが風に遊ぶ。
 やがて、太陽を抱く|女神《ミューズ》に、画家はこの世の慈しみをすべて詰め込んだように|微笑《わら》った。
 そうだ、彼は《《微笑った》》のだ!

 ここにはいられない。どうしてか、そう思い、ももは我にかえると倉庫から飛び出していた。
「どうした」と声をかけてくるシモンにも、狼狽した様子を隠さず、「ちょっと買い物に」と身ひとつで丘を下りた。
 そうして、ひたすらうねりをあげる心臓を押さえながら、必死で溢れそうになる涙を堪え、街へと向かって歩いた。

「マドモワゼル」
 歩き、走り、無我夢中でクレマンソー橋を渡りヴェルノンの街にたどり着いたところで、ももは腕を掴まれた。
「どちらへ行かれるのです」
 視線を上げた先にまみえたのは、ジャン=クロードの貴族然とした均整のとれた顔だった。ツン、と上を向いた鼻や、小ぶりな口、それからカリブの海みたいな瞳が彼の研ぎ澄まされた空気をいっそう強めている。
 まさかこんなところで会うとは。なぜかはわからないがその姿に先ほどまで見ていた光景が蘇って、もものまなじりから、雫がひとすじ伝った。
 ジャン=クロードの穏やかな表情が一変する。
「もしや、あれを見つけたのか?」
 ももは、こっくり頷いた。

 一九九〇年、北フランスの海辺の街、ドーヴィルで描かれた一枚の絵画。あふれんばかりの光の中で、佇む一人の女性。若き画家シモン・ロンベールによって描かれた作品である。
 それは、これまで見たことのなかった、彼の影に潜む絶対的な光の存在を映し出したものであった。
 滲んだ視界にもはっきりと映るその|女《ひと》の姿が脳裏にこびりついて離れない。

 なんと美しい絵画であっただろう。色彩の鮮烈さ、儚いほどに繊細なタッチ、そのどれを思い起こしても全身の細胞が沸き立つ。

 目の奥や耳、喉、それから胸のあらゆる芯部から熱があふれ、駆け巡るあの感覚!
 まるで、マグマが噴き出すごとく激しい血潮!

「それで、どうだったかな、あの絵は」
 掴んでいた腕をほどき、ジャン=クロードはひとつため息をつきながらグローブをとる。
 つい少し前まで苦い表情を浮かべていたというのに、もうすでに毅然とした表情に戻り、指先でグローブを掴む仕草さえ悠然としていた。
 ももは、目映さに目を細めて、重い唇を開いた。
「すごい、画家だわ。あの人は、シモンはすばらしい画家なの」
 あの絵を見たときの高揚は、かつてないほどだった。一瞬で、ももの目を灼き、その心臓を抉った。抉られたそこはとてつもない熱を発し、ももの思考を乗っ取ろうとした。いや、今なお、彼女は内から沸き起こる激しい感情に呑まれようとしている。
 シモンを賞賛する言葉とはうらはらに、彼女の頬は次々とあふれる涙に濡れていた。
 それでも、なにひとつ自分の内に渦巻く感情を素知らぬふうに、彼女はたおやかに微笑む。ほんの少し錆びた鉄の味が口内に滲むのもいとわずに。
 ジャン=クロードはそんなももを見つめていた。

「モモ」
 外したグローブを揃えて外套のポケットにしまうと、彼は彼女の乱れた前髪に指を通した。
「君に、いいものを見せてあげよう」
 ぱちり、しどけなくまつ毛を揺らしたももの肩をジャン=クロードはそっと抱く。それから路肩に停めてある黒塗りの高級車に彼女を乗せるとヴェルノンを発った。

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