第二章 雨に燃ゆる 6

6

 リネンのカーテンから光が差し込んでいる。窓際の白いシーツの皺を映し出すほどのあえかな光だ。

 静閑とした森に踏み込んだかのような空気だった。ひんやりとした温度が肌を包んでいる。ただ、腕に伝わる生々しい温度だけは、これから起こることをあたかも知っているかのごとく、ももの心臓を|迫《せ》りたてる。
 きっとその森には神獣が潜んでいて、今まさにかの聖なる存在に生贄を捧げる儀式が行われようとしている。罪を犯し、その贖罪を求めてその身を捧げる者と、それを受け入れる者。大きな石座の上に、やがてももは体を横たえることになるだろう。

 静かに扉を閉じる音がして、ももは小さく体を揺らした。首をゆっくりと擡げると、暗闇の中で、緑褐色の瞳がももを射抜いた。
 刹那、大きな影が彼女に覆い被さり、ざらついた感触が唇を弄ぶ。
 突然のことに、ももは驚かなかった。それどころか、彼女はシモンの口づけを受け入れていた。

 ねっとりと、唇を熱い舌でなぞられる。唇のあわいを、ぷっくりと膨らんだ中央を、そして、すべてを。なぞっては、包み、包んでは、なぞり。まるで、彼女のそれがどんな形をしているのかを確かめているかのようだった。
 繊細で、それでいて、獰猛な獅子のようで。ももは唇を開き、濡れた吐息をもらす。
 自分を見下ろす瞳の、なんと憂いこと。それがさらに男の色気を滲ませて、この上なく甘い毒となる。
 シモンはなにも言わない。そのくせに、彼女の唇が開かれるの待ち侘びていたとばかりに、舌をねじ込んでくる。
 扉へと仰け反る肩をそっと掴むと、彼はすべての逃げ道を断つ。

 どうして? ももは、噛み付くようなキスを受け入れながら思う。
 なぜ、彼は、こんなことを?
 だが、同時に、シモンのまなざしに、あの指先に、いつしかすべて奪われてしまいたいと思っていたのは、自分だったと気づいていた。

 ハイネックのリブニット越しに伝わるシモンの熱が、その大きな手のひらが、眠っていた細胞を呼び醒ましていく。
「っ……は……」
 厚い舌が口内を蹂躙する。手のひらが肩から滑り落ち、腕を|模《かたど》り、彼女の女性的な流線をその手で|描《えが》いていく。
 背すじが痺れ、もはや自分の体ではないようだった。腹の底がじくじくと熟し、頭がくらくらする――すべて、溶けてしまいそうだ。

「ムシュー、ロンベール」
 わずかに唇が離れたとき、彼女は彼を呼んだ。混じり合う吐息の中で、絡み合う、劣情の中で。
 シモンの美しい瞳が、ももを見下ろしていた。緑がかった榛のあの瞳には、今はまるで静かに獲物を狙う獰猛な獣のように、深い赤色が滲んでいる。

「やめるか」
 だが、シモンは言う。冷静な口ぶりで、ももの呼吸を食らいながら。彼の吐息が頬を掠めて、ももはかぶりを振った。
 凜々しい双眸がわずかに細まる。その仕草さえもまるでひとつのギリシア彫刻のようであった。

「すごく、きれい」
 なぜだか、泣きだしてしまいそうになるほど。うっとりと吐息をこぼしたももの唇に、シモンは勢いよくかぶりついた。

 先ほどよりも激しい口づけがももを襲う。
 シモンの手のひらが肌を弄って、セーター越しにじっくりと愛撫を繰り返す。暗闇に紛れてしまいそうな彩度の低い紫色のそれに、シモンの浅く日に焼けた肌色はとてもよく映えた。
 やがて小さな体を抱いたまま、シモンは光の注ぐ唯一の場所へと彼女を|誘《いざな》った。

 ひざの裏に、ひやりとしたシーツの感覚が当たる。ミモレ丈のスカートを履いているとはいえ、中は生足であった。その温度にももは恥ずかしくなって脚をよじった。
 彼の手が服の中へと忍び込み、ももはただその快感を受け入れる。繊細なシモンの手のひらに、何度も何度も目の奥に火花を散らしながら。
 そうして肌を許したことはこれまで何度もあるはずなのに、まるで、生まれて初めて触れられるようだ、とももは思った。
 指先で触れ、ひらでなぞり、腹からゆっくりと大きな手が這い上がっていく。その慎重さとはうらはらに、激しさを増していく口づけが、ももの中の劣情をいっそう煽る。
 もっと、触れてほしい。その手で、もっと多くを確かめてほしい。
 うっとりと瞳を閉じる彼女の思考は、すでにシモン・ロンベールという男に塗り潰されていた。

 大きな手が背中に周り、締め付けていた窮屈さから解放されると、浮遊感がももを襲う。とっさに男の胸元を掴んだももであったが、次に瞬間には、背をやわいシーツが包み込んでいた。
 目の前には暗い天井と、そして、淡い光を浴びてきらめくグレーの髪。

「ムシュー」
 ついに、石の台座に横たえられてしまったのだ。
 鼻腔に降りてくる、オー・デ・コロンと、かすかに苦い煙草の香り、それから、シモンの肌のにおい。すべてがももの目の奥をジン、ジン、と溶かしていく。

 これから先に起こることをももは知っている。本当ならば、男の手を振り払うべきであったのかもしれない。この部屋に来る前に、きっと。
 だが、シモンが雨の向こうから飛び込んできた瞬間から、ももの気持ちは決まっていた。

 ももは懇願するような瞳で見上げる。
 《《苦しげに》》、《《悲しげに》》、自分を見下ろす男のことを。
 彼がその精悍な仮面の下に隠した感情を見せたのは、このときが初めてだったかもしれない。

 ももは受け入れた。男のことを。そして、解き放たれようとしている、自分を。

 シモンの唇がそっと降りて、行為が始まった。いっそう熱く、激しい、ねっとりとした深い営みが。

「どうか私を愛さないでくれよ」
 絶え間なく続く快楽の狭間、男は耳元で囁いた。
 ももは必死で押し寄せる波に抗いながら、ウィ、ムシュー、と答えた。

 神はどこにいたのか。そして、身を捧げる者は|何処《いずこ》――。
 しん、とした森は、いつしか濃密な空気に包まれていた。

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