第二章 雨に燃ゆる 5

2-5

 アトリエに着くころには、髪や肩がしっとりと濡れていた。シモンはコットンの肌触りのよいタオルを貸してくれた。

 先ほどよりも大きくなった雨粒が、窓や屋根を打ちつけている。
 多くの画材で埋もれた小屋にそれは小さく響きかすかなシンフォニーを奏でている。今ここに、二人は存在していた。陰鬱で、黴臭ささえ滲むようなこの場所に、唯一の男女の一対としてたしかに存在していた。
 太陽の不在は、彼らをそこへ閉じ込めることに成功したようだった。

「昨日、オランジュリーに行きました」
 濡れた体をタオルで拭いながらももは言った。
 画材が散乱した作業台でタバコを巻きながら、シモンは、それで? と一瞥もくれずに相づちを打った。
「とても、きれいでした」
 ももは答える。
「壁いっぱいに睡蓮の絵があって、本当に睡蓮の咲く庭を見渡しているみたいだった」
 オランジュリー美術館には、『|睡蓮の間《Les Nympheas》』と呼ばれる、モネの巨大な連作を飾る部屋が二つある。楕円形で、天井には空がまみえる『睡蓮』のための展示室だ。
 ゆるやかにカーブする壁に沿って、それぞれ四枚の絵――計八枚の巨大な絵が飾られ、作品と鑑賞者のあいだには、一切の隔たりがない。
 モネの庭を見に行ったときには、季節が過ぎていたために睡蓮の花を見ることは叶わなかったが、時間により移り変わる睡蓮の絵は、まさに人々を画家の愛した睡蓮の池へと|誘《いざな》う力があった。

「けれど……」ももは言葉を止める。
 睡蓮の間で、彼女はその絵の前にしばらく立ち尽くしていた。睡蓮に囲まれて、じっとその部屋の中央に佇み、画家の眼を、画家の想いを感じようと、巨大なカンヴァスに向き合っていた。
 だが、その時実際に彼女の心に浮かび上がったのは、まったく別のものだった。
 瞳を伏せたももの視界に、アトリエの奥に立てられたイーゼルが掠める。

「けど?」
 黙り込んでしまったももに、シモンは一瞥を寄越す。
「いえ」と、ももはかぶりを振った。
「ただ、 人が多かったので、少し残念だったなと思って」
 ちがう、本当は、そんなことじゃない。ももは胸のつかえをどうにか飲み下しながら、丁寧に濡れた毛先を拭う。
 フランスに来てから、すでにひと月半が過ぎていた。あご先で切り揃えられていた髪は、すっかり不揃いにあちこちを向いていた。
「次は、朝早くに行くといい」
 ややあって、ジュッとライターの音を立てて、シモンは煙草に火をつける。
「朝?」ももは顔を上げた。
「ああ」
 細い棒を咥え、瞳を伏せたままそれを吸う。やがて、唇から指先にとると、彼はゆっくり紫煙を吐きだした。
「開館してすぐなら、人は少ない。それに、朝の洗われた光の中で見るあの絵は格別だ」
 色鮮やかな大きいカンヴァスに、天井から天然の光が注ぐ。それも、目映い朝日だ。
 強すぎることも、弱すぎることもない、爽やかな日差しが降り注ぐ様は、きっと素晴らしいに違いない。
 なるほど、そうしてモネの絵は完成するというわけだ。

 晩年、大睡蓮画を飾る手法を事細かに指示したのは、画家自身だった。カンヴァスの上のみならず、それを飾る部屋、そして、自然までもを含めて『睡蓮』というテーマを完成させようと、画家は試みたのだ。
 クロード・モネという画家が、単なる絵描きではなく、真髄の|芸術家《アーティスト》であったと納得せざるを得ない。

「……きっと、素晴らしいんでしょうね」
 言ったきり、背を向けてしまったシモンにももはそう口にしたが、その声はくぐもっていた。

 依然、雨脚は弱まることはなかった。雨粒がぶつかっては小さな飛沫を散らし、線をなぞるように下へ滴っていく。窓の向こうは霞み、いつものジヴェルニーとは別世界のようだった。
 しばらくシモンは窓辺に佇み、外を眺めていた。
 指先に巻き煙草を挟み、それを口に運んだり、離したりを繰り返している。

 男の背は、城壁だった。何人たりとも寄せ付けず、大きくて、硬い、石造りの壁。だが、ももは、不思議とそこへ頬を寄せてみたくもなった。
 その肌に触れる温度を、感触を、音を、この身で感じてみたい。

「ほんとうは」
 ももは切り出した。
「無性に、ここに来たくなったんです」
 彼女の告白に、シモンは指先で灰を落とした。
「なぜ?」
 わからない、小さくつぶやいて、ももはタオルをそばにあった椅子の背もたれに掛ける。シモンは女の答えに興を削がれたのか、ふいとそっぽを向くと煙草を咥えながらイーゼルのもとへ向かった。
「でも」と、ももは続ける。
「ルーヴルでモナリザを見たときも、ドラクロワの女神を見たときも、睡蓮を見たときも、不思議とあなたの絵が見たいと思った」

 大きな背が、動きを止めた。

 ももは思い出す。どの作品を見ても、ここよりはるかに荘厳な場に足を踏み入れても、あれほどの心の揺さぶりを感じたことがなかったことを。
 焦燥を、空白を、そして、絶望を、あらゆるものを消し去ってくれる昂りは、ルネッサンスの傑作や、近代芸術の大いなる歩みを目の前にしても、彼女のもとには訪れなかったのだ。

「見たくて、見たくて、たまらなかった」
 低く、静かで、まるで罪を打ち明けるときのような不思議な響きが室内にほどける。微かに残り、あとはしんと雨音に消えていったそれが、太陽の不在をよりいっそう濃いものへと変えていく。堅牢な背を見つめる彼女の瞳は、わずかに潤んでいた。

 屋根や壁に打ち付ける雨が激しさを増す。だが、アトリエは決して静謐な世界を崩すことはない。

「モネのほうが、何倍も価値がある」
 画家は緩慢に動きだすと、まるでなにごともなかったかのように言った。

 それきりなにも口にしなくなったシモンに、彼女も口を結んだ。
 いつものように、淡々と制作を始めたその横顔を見つめる。額にさらりと垂れたグレーの髪、深い眼窩には影が落ち、伏せられた銀色の睫毛は彼の瞳に合わせて微かに揺れている。
 画家のまなざしは、冷えきったロダンの彫刻のようでもあった。だが、それがひとたびカンヴァスの上を滑りだすと、とてつもない熱を帯びることをももは知っていた。
 誰も触れたことのない、彼女自身も知らない心の奥深くをくすぐり、喉を疼かせる、そんな熱を。

 目の前の描きかけのカンヴァスを撫で、シモンはその指先に色が付かないことを確認すると、そばにあったパレットを手にとった。だが、すぐに描きだすことはなく、紫煙をくゆらせながらじっとカンヴァスを観察し続けた。

 そこに描かれていたのは、ヴェルノンの街並みだ。あの光の溢れる風景――ではなく、青く灰色がかった宵の街並み。
 画面上部に広がる建物群の影の間に、ひとつ、ふたつ、と鈍く瞬く街灯が立ち尽くしている。全体的に、薄く霧がかったようなぼやけた印象だった。
 画面下部、街の手前には空と同じく白みの強い青灰色のセーヌがたゆたっている。

 やがてシモンは細身の筆を手にすると、パレットの上にある色をとった。今にもこぼれんと花開くクチナシの色。青い世界にただひとつ浮かぶ、灯の色だ。
 それを宵に暮れるセーヌ川に載せていく。音も立てず、輪郭を失った亡霊が水面に映り、ももはその絵画の全景を知った。

 ああ、これは、ただの宵ではない。
 《《雨に霞む》》ヴェルノンの街だったのだ。
 こんな、夜の街を知っている。すべてが滲み、暗澹とした夜を。

 ももは思わず喘いだ。
 震える指先で口を覆う。はげしくなる呼吸をなんとか整えようと浅く息継ぎを繰り返す。

 シモンのまなざしは、すでにももの纏ったヴェールを手繰り、隠された柔肌を探り当てていた。メランジュのニットの袖から伸びる手には太い血管が浮かび、小刻みにカンヴァスの上を動いている。なんとも逞しい、男の手だ。しかし、まるで頬に落ちた雫を親指で|掬《すく》ってくれるような、繊細な手でもあった。

 鼓動が速くなる。
 呼吸が、いっそう浅く、はげしくなる。
「ムシュー」
 ももは喘ぐ。
 シモンは、ウィ、と短く返事をした。

「あなたに、絵を描いてほしいの」
 唇は乾き、指先の震えは治らない。だが、いつしか抱いていた強い渇望を、口にするのはいとも容易いことだった。
 ほろりと零れた言葉に、シモンの動きは止まる。それは、ほんの一瞬のことだった。
「いくらで?」
 シモンは変わらず絵を描き続ける。静かなセーヌの水面に、光を、影を、次々と滲ませていく。
「いくらでも出すわ」
 彼の手元を一心に見つめたまま、ももは矢継ぎ早に続けた。
「どんな?」男もまた答えた。
 ザッ、ザッ、と短く、均一な音が続く。喉はひどく、カラカラだ。
 ごくり、ももが唾を飲み下す。

「……わたしを」
 すべての音が止んだ。

「わたしを、あなたの絵の中に、閉じ込めてほしい」

 静寂に包まれた世界、ももは断罪を請う咎人だった。ただひたすらシモンの筆先を見つめるまなざしは、ほとんど神に縋るそれに近い。
 頬は青白く、唇は真っ赤に染まっている……。

 カタン、小さく音が鳴り、ももはやおら視線を擡げた。
 筆を置き、咥えていた煙草を灰皿へと押し付けたシモンの瞳が、肌を|貪《むさぼ》る高貴な獅子のまなざしが、彼女を捕らえていた。

「来い」
 腕を掴む大きな手のひらは、火傷しそうなほどの熱さであった。

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