第二章 雨に燃ゆる 3

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 ヴーヴー、鳴り止まない携帯のバイブレーションに、ももは眉を顰めながら布団からら手を伸ばした。

「ボンジュール」
 画面をタッチして、そこに映し出された名前すら確認せずに耳に当てる。
 聞こえてきたのは、おはよう、という母国語だった。

「……ごめん、寝惚けてた。おはよう」
 といっても、こちらはまだ朝の五時だ。起きるには少しだけ早い。
「いっくら電話しても繋がりませんってなるから、番号変えたのかと思った」
 そう息を弾ませて捲し立てるのは、高校時代からの友人の|沙希《さき》だ。
「ごめん、今、パリにいて」
 ぎゅっと体を丸めながら、ももは掠れ声で答える。
 九月も終盤に差し掛かり、華の都と呼ばれる憧れの街も朝方はかなり冷え込むようになっていた。夜着のガウンも、薄手のものから厚手のものに変わっている。

「パリ!」
 暖かなシーツの中で響いたのは、沙希の叫びだった。
「そう、言ってなかったけど」
 あまりの声量にできるだけ携帯を離して答える。
「本当、SNSも一切更新されないし、メールも繋がらないし、ついに失踪したか? と思ったら、パリに……」
「失踪って。そんなおおげさな」
 それだけ心配だったの! と叱られ、ももは閉口する。

 たしかに、単身フランスに飛ぶことを知っているのは家族だけだった。沙希の言うとおり、SNSには一切載せていないし、ついでに、チャットアプリは端末から削除済み。アカウントは残ったままなので、もしも、再開したら凄まじいことになっていることだろう。
 ひとりでにゾッとしたももはひとつ身ぶるいをすると、どうにもじっとしていられなくなり、シーツから這い出た。

「まあ、でも、パリか。それならいいわ」
 どうやら瑣末を納得したらしい沙希は、うんうん、と電話口で頷いている。
「ごめんね、心配かけて」
 湯を沸かそうとやかんへ水を流しながらももは答える。
「いいのいいの。無事がわかったから。初めは、本当心配を通り越してイライラしたんだよ。それで、ももの実家まで押し掛けようと思ったけど。まあ既読無視も未読無視も、今に始まったことじゃないしね」
「返す言葉もございません」
 肩を竦めて降参の構えを示すと、それを目の当たりにしたかのように、沙希は、ふふん、と鼻を鳴らした。

「むしろ、今そっちに居るって聞いて、やっと、と思ったよ」
 やっと、その言葉に、ももはやかんをコンロへ置いて一切の動きを止めた。だが、それは一瞬で、すぐさま、「そう?」となにごともなく続けた。
「そ。だって、もも、将来フランスに住んでみたいって言ってたじゃん」
「そうだね」
 わずかに、ももの声が小さくなったが、沙希はそれに気づかず、懐かしそうに声を弾ませる。

「おぼえてる? 私と二人で旅行したとき、自分の国みたいだってはしゃいでたの」
 そう、ももにとって、フランスを訪れるのは、これが初めてではない。

「おぼえてるよ」
 弱々しく口にして、ももはつまみをひねる。シューっとガスが漏れる音がする。携帯を耳と肩に挟みながら、キッチンに置いてあるマッチ箱から一本とりだすと、火薬を擦って火を付けた。

 マッチなど学生時代の理科の実験とかでしか使った記憶がなく初めは戸惑ったものだが、一ヶ月もするともう慣れたものだ。
 バーナー部分に小さな炎を差し出すと、ジュッと音を立てて火が点いた。火傷しないよう、すぐさま手を引っ込める。

「本当に、夢に満ちた街だったから」
 マッチ棒をぶんぶん、と振って、鎮火する。ゆるやかに立った煙を、しばらくももは眺めた。

「ももがそっちにいるなら、ちょっと安心」
 先ほどまでの弾丸の舌はしまいこまれていた。子どもの頭を撫でるようなやさしい声色に、自然と視線が落ちる。

「ごめんね、心配かけて」
 ううん、と沙希は言った。

「ももは、好きに生きていいんだよ」

 ももは瞳を閉じた。沙希のほんの少し潤んだ言葉が、目の奥を、喉の奥をギュッと掴む。

「ありがとうね、沙希」
「いいえ。ま、たっくさん、楽しんできなよ。それこそ、なにもかもどうでもよくなるくらい。そんで、お土産はアンティーク柄のカフェ・オ・レ・ボウルとクスミティーのデトックスのやつね」

 いつもの調子の友人に、ももはゆっくりとまぶたを擡げてくすりと笑う。
「了解。探しておくね」
 危険なことだけはやめてよね、と念押しを最後に、電話は切れた。

 携帯を下ろして、ため息に似た小さな吐息が冷え切った唇から漏れた。
「そう、わたし、フランスにいるの」
 とん、とん、とシーツを指先で打って、ももは呟く。
 やかんが今にも悲鳴を上げようとしていた。

 初めてフランスを訪れたのは、大学二年生のときだった。それがももにとっての、初の海外旅行であり、初の大きな冒険でもあった。
 大学は、高校の指定校推薦を利用して、フランス文学科に進学した。本当は英文科を志望していたが、高校二年のときに母が、そして三年生の夏に、父が脳梗塞で倒れたために――幸い、投薬治療を続けてはいるが、今では二人ともピンピンしている――少しでも早く、そして楽に受験を終わらせたくてその結果に至った。とはいえ、仏文科に進学したことを、ももは今でも後悔してはいない。さほど流暢に言葉を話せるようになったわけではないが、彼女が外の世界を知る大きなきっかけになったからだ。

 それはさておき、渡仏の話に戻る。一度目は二十歳の夏、友人の沙希とだった。初めて日本以外の地に降り立ったともあって、その感動はひとしおだった。それこそ、沙希が言ったように、大きなはしゃぎようであったことは言うまでもない。

 凱旋門にエッフェル塔、オペラ座やルーヴルに、ベルサイユ。有名な観光地はひととおり巡った。もちろん、シャンゼリゼ通りで、あの華やかなシャンソンを歌いながら踊るように歩いたりなんかもして。これまで訪れたことがないなどうそみたいに、ももはフランスに溶け込んだ。いや、フランスという国がももの中へと入り込むことに成功したのかもしれない。帰りの飛行機では、シャルル・ド・ゴールの滑走路を眺めながら「絶対にまた、帰ってくる」と誓っていた。

 そして、その誓いは今となって、見事に果たされたわけであるが、かつての夢の街が、あの頃のままなのかどうか、ももには判断しかねた。
 なにせ、彼女はあらゆることを失っていたのだ。

 結婚を約束したパートナーも、職も、それから、《《新たな希望》》すらも。

 結局、あのまま二度目の眠りにつくこともできず、ももは早朝から動き出した。
 それも、珍しく北部へと向かう列車に乗ることなくジメジメとしたメトロに揺られ、辿り着いた先はプラス・モンジュ駅だった。なにか大事な用があったわけではない。ただ、今日だけは、そんな気分だったのだ。
 プラス・モンジュ駅はパリ五区に位置しており、アパルトマンのあるトルビアック駅からは約五分、七番線の駅だ。もものお気に入りの場所のひとつでもあった。
 駅を少し出て坂道を登ると黄色い看板の|ファーマシー《ドラッグストア》があり、国産の化粧品をかなり安く買える。それから、近くのブーランジェリーのカスクートが絶品だ。だが、そのためではなかった。駅を出てすぐの坂を登り、そして、下っていくと、カルティエ・ラタンの街並みが広がるのだ。

 朝早いこともあり、ブーランジェリーくらいしかシャッターは開いていないが、散歩にはうってつけだ。ももは絶品のカスクートを手に入れて、しばらく漫然と歩く。朝のさっぱりと空気に包まれたパリの街並みは、ただの日常を映し出しているだけなのに、やはりどこを切り取っても絵になる。
 古き良き時代の雰囲気を残した街、それはヴェルノンもジヴェルニーも変わらない。だが、どちらかというと――いや、せっかく、パリにいるのだ。
 ももは脳裏に浮かぶ光景を今だけは隅へと追いやって、カルティエ・ラタン散策に勤しんだ。

 通りかかった公園で朝食を済ませたあと、植物園やリュテスの円形劇場を地図で確認しつつ、ももはパンテオンまで向かった。
 パンテオンの近くにはアンリ四世高等学校や名門グラン・ゼコール、はたまたパリ第四――ソルボンヌをはじめとするパリ大学があり、知的かつ聡明で、華美ではなく上品で優雅なパリジェンヌの気分を味わうことができる。
 マレ地区ともモンマルトル地区とも違うパリの姿がそこにはあった。ヘミングウェイやフィッツジェラルドなどの著名作家が足繁く通った書店や、ピカソやセザンヌなどの利用した画材屋も、まるで当時の様相をそのまま現代に移行したかのごとく街に残っている。

「昔は、迷子になりながら歩いたっけ」
 ヴィンテージ・パリの薫りに、数年前のことが蘇る。

 六つ折の地図片手に、きょろきょろと辺りを見回す女子大生二人は、はたから見ればなんとも微笑ましかったことだろう。
 なにもかもが新鮮で、あらゆることがとにかく良い刺激で――あの頃は一切を気にせず、すべてに目を輝かして歩くことができた。

 リュクサンブール公園へ繋がるスフロ通りを下る前に、ももは振り返る。
 青空に|聳《そび》える、真っ白なギリシア建築が目を灼いた。

「まぶしい」
 ずきん――ずきん――と、目の奥が、胸の奥が、大きく軋む。

 ひとりは、楽だった。誰にも期待されることもなく、裏切られることもない。そうして立ち止まったももを、何人もの人々が追い越していく。
 誰も、《《わたし》》を知らない。そう、彼女の顔を窺い見る者がいたとしても、彼女が誰であるかなど、誰も気にしない。
 ゆっくりとその双眸を閉じると、ももは踵を返し、坂を下っていった。

 左手に馴染みの黄色と赤のファーストフード店のガラス窓を眺めながら、向かいのアンティークショップに立ち寄っては、沙希に頼まれたカフェ・オ・レ・ボウルを探し、リュクサンブール公園で風にそよぐ小さな帆を眺めたり本を読んだり――そんなふうにとりとめもなく午前を過ごして、昼はルーヴルへ向かった。
 ルーヴルは相変わらず大変な盛況ぶりだった。チケット売り場は長蛇の列、ピラミッド周辺も観光客の大行進、さすがは世界でも有名な観光地だ。ただ、それを見越していたももは、事前に観光案内所でチケットを買っていたので、入場口の列に並ぶだけで済んだ。

 ルーヴルに気が済む――あまりに広すぎるため、ドゥノン翼を最短コースで回るという荒技に走ったのだが――と、午後はオランジュリーとオルセーに向かった。
 オランジュリーはモネの大作「睡蓮」が、一方オルセーでは、モネはもちろん、マネなどの名だたる印象派画家たちの作品が数多く飾られていることで有名である。

 もとよりこれほど美術館を巡るつもりはなかったが、気がつけば足がそちらへ向いており、ももはこれまで生きてきた中で見た絵画の数をはるかに凌駕する枚数をその目に納めることとなった。
 本日三つ目の美術館を出る頃には、たしかな疲労感を感じていたが、懲りずに売店で印象派に関する書籍を買った。

 夜は、寒いからかラーメンを食べたくなり、目に入ったジャパニーズ・レストランに入った。だが、日本人の経営する和食店ではなく、海外ではよくありがちな日本人以外のアジア人が開いている店であった。

 客はもも以外に誰一人おらず、店の奥からテレビだかラジオだかの天気予報を告げる声がやけに響いている。
「チクショウ、明日はどしゃ降りだと」という店主のぼやきをよそに、ももはメニューを開き、中央にドンと押し出された『ヤキニクテイショク』を無視して、隅に載っていたラーメンを頼んだ。

 妙に胡椒の効いた醤油ラーメンは、ひと言で言ってしまえば物足りなかった。細いのだか太いのだか、よくわからないふやけた中華麺も、醤油を湯に薄めただけのようなスープも、インスタントラーメンを買ったほうが、幾分かマシだとももは失礼ながら思った。不思議と膨満感はあったが、気分的には自分の足尖を見つめたくなるような、そんな感じであった。
 きっと、ラーメン以外も似たようなものだったのだろう。いや、もしかすると、イチ押しの焼肉定食だけは違ったのかもしれない。そんなことを考えたがあとの祭りだ。

 帰り際、店員はももに、「|謝謝《シェ・シェ》」と言った。これも、よくありがちなことだった。ももは肩を竦めて、ぎこちない愛想笑いを返すと外に出た。となりのケバブ屋のいい匂いが鼻腔を掠め、自然とため息が漏れた。

 すでに、辺りは薄く紺色に染まり始めていた。夏場はいつまでも日が暮れないパリだが、秋も深まってきた今では、さすがに日没も早まっている。とはいえ、やっと日本の夏至に追いついたかというところだろう。

 ももは地下鉄の駅へ向かおうとして、ふたたび美術館方面へと戻った。なんとなく、アパルトマンに帰る気にはなれなかったのだ。《《物足りない》》ラーメンを一日の締めくくりにするのは、気が引けたからかもしれない。いっそのことサン・ラザール駅に向かうという手も頭を過ぎったが、実現させるほどの勇気はなかった。

「さむい……」
 オルセー美術館を右手に眺めながら、セーヌ川沿いをしばらく歩く。夜の匂いを孕んだ冷たい空気が耳の裏を撫で、ももはたびたび体を震わせた。もはや、厚手のコートを羽織ってもよい気温だった。
 それでも、パリの街はその彩りを欠くことはない。街灯は明るく石畳を照らし、すぐそばを走り抜けるエンジン音の合間、軽やかに跳ねるコントラバスの音色やエッジの効いたシンガーの声が響いてくる。賑やかだった。

 頬を冷たくしながらキャルーゼル橋を越え、やがてポンデザールの明かりを認めると、ももは足を緩めた。

 煌々とオレンジ色の光を放つその芸術の橋には、行き交う人々や寄り添う恋人たちの影が見える。その手前からはカトラリーやガラスの鳴る音、それから、人々の談笑する声が耳を撫でていく。

 吹き抜ける風は、青い匂いがした。セーヌの流れに逆らい、栗色の髪を攫っては、紺色の空に散りばめていく。細い指がそれを掻き集め、耳へとかける。

 パリの夜景は、幻想的だ。
 それは、あの時と一切変わらない。ももがまだ、あらゆる期待に胸を弾ませていた、あの日と。それなのに。

「ママン!」
 声がした。鈴の音のように澄んだ声が薄暮に弾んで、ももは咄嗟にそちらを振り返っていた。

 小さな男の子が女性へと駆け寄り、広げられた腕の中へと飛び込んでいく。隣には、やさしく眦にしわを寄せた男性が彼らを見守っていた。
 強く抱きしめられた男の子は笑う。女の人も、そして、男の人も。幸せそうに、笑っていたのだ。

 頬に、なにかが伝った。
「……っ」
 あれほどにも日が照っていたというのに、ぽつり、ぽつり、勢いを増してはそのあとを冷やしていく。

 いつしか、ポンデザールの灯火は滲んでいた。揺らぐ水面へと落ちた影も、石畳に浮かぶ赤や青の美しい光も、なにもかも。目に映るすべてが、亡霊のごとくその輪郭を失っていた。

「……もう、かえろう」
 やがて、もものか細い声がパリの喧騒に溶けていった。

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