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不思議なことに、その次の日から、彼女は朝ヴェルノンのブーランジェリーで二人分のクロワッサンを調達するようになっていた。また、あるいはカカオの香ばしいパン・オ・ショコラを。できるだけ焼き上がる時間を狙ってヴェルノンまでの列車に乗り、三つ、四つ袋に詰めてもらって、光の丘に向かう。
彼女の新たな習慣は、同様に新たな発見でもあった。
「ボンジュール。ムシュー・ロンベール」
朝のさわやかな空気にはいささか刺激的な香りを運びながら、ももはアトリエに顔を出す。
そこにシモンの姿はなかったものの、すぐに奥からのそのそ床を擦る足音が聞こえてきた。
「ボンジュール、マドモワゼル」
と、返した男のグレーヘアーには、ふわふわと寝癖がついており、口元にはもちろん無精髭が携えられている。起きたばかりにも、はたまたいつもどおりにも見える無防備な姿に、ももはかすかに眦を緩めながら、首に巻いたコットンのストールを外した。
「調子はどうですか」
「悪くないな。君は」
「私も、まずまずですね」
などと形骸的なあいさつを交わし終えると、男が、スン、と息を吸いこんで、ももの腕の中を見た。
「パン・オ・ショコラか」
「はい。ちょうど、焼き上がったところで。よければ、いかがですか」
気難しい顔の男に、ももはたじろぐこともなく、紙袋を差し出す。
「君のは」
その香ばしい袋を一瞥したあと、シモンは彼女の顔を見た。
「別に包んでもらってあります」
言って鞄をぽんと叩くと、シモンはあごをしゃくった。
「そこに置いておいてくれ」
「テーブルに、ですね」
散らかった作業台を指差すと、彼は|そうだ《ウィ》と短く答えて、頭をがしがしと掻きながらそそくさと自分の城へと戻っていく。
その足取りがそこから出てきたときよりも幾分か軽やかなことを、ももは知っていた。
パン・オ・ショコラにコーヒーといういかにもフランスらしい朝食を終え、二人は丘へと出た。
はじめてここに訪れたときは、まだ緑色の海が広がっていたというのに、いまはもうほぼ一面小麦色に染まっている。その金色の海原に、木製のイーゼルと男がぽっかりと浮かんでいた。
かさ、かさ、と紙を擦る音がする。いまにも風の音に混じってしまいそうな微々たるそれは、シモンが煙草を巻く音だ。
写し紙みたいな薄い紙に|茶色い葉《ジャグ》を載せて、それをこぼさぬように慎重に巻いていくという光景はスクリーンの中で何度か見たことがある。日本では見慣れない、巻煙草というやつだ。
彼は好んでそれを吸っているようだった。日に、二回から三回。制作に夢中になっているときはまるきり吸わないこともあった。ちなみに、それ以外にほかの煙草を吸っている姿は見たことがない。
斜め後ろ、絶好の特等席から、ももはシモンを眺めた。
太い指先で器用にジャグとフィルターを紙の中に封じ込め、そうして唇に咥えるとライターで火をつける。その一連の動作は、無愛想なシモンの顔をいかにもそれらしく彩るに値した。
一口目を深く吸ったあと、紫煙を大胆にくゆらせて画家はカンヴァスに向き合う。
今日はどんなものを描くのだろう、ももは苦い香りを感じながら彼の一挙一動を見守った。その反面で、シモンがすぐには描き出さないことも知っていた。
どこから筆を入れようか、あるいはどんな色にするか考えているのか、はたまた、まったく別のことか。ともかく、指先に挟んだ煙草をたまに二、三口吸いながら、じいっと、睨むとも観察するともどちらともつかぬまなざしで男はまっさらな世界を見つめているのだ。
彼女も、シモンに|倣《なら》ってカンヴァスを見つめることにした。
もしかすると、自分もそこになにかを見出せるかもしれない。そんなふうに思ったのだ。
真っ白なそれは、太陽をまっすぐに見つめたときにもよく似ていた。
目映くて、目の奥がツンとするような――慌てて瞳を閉じても、しばらくその残像がまぶたの裏にこびりついて離れない。
はやく、はやく、描いて欲しい。ももは、目を逸らしながら思っていた。
白を、あらゆる色で塗り潰して欲しい。彼の手でもって、今ここでカーテンをかけて欲しい。大きな背中に無言の救いを求める。
「手は、もう平気なのか」
すると、それが通じたのか否か、煙草を指先とって、シモンは振り返らずに訊ねてきた。
「おかげさまで。赤みもすっかり引きました」
ももは咄嗟に手のひらを出して、ぐーぱーと開いたり閉じたりを繰り返して見せながら答えた。
剥離剤を浴び、しばらくはただれていたものの、彼が機転を利かせてすぐさま洗い流してくれたこともあって、それ以上は酷くならなかった。
「ならいい」
シモンは言うと、そばに置いた道具箱から絵の具のチューブを取って、パレットではなく小皿にそれを出し始めた。
相手の目を見ることもなく、常どおりの素っ気なさだが、ももが気にすることはなかった。
さあ、今日はどんな魔法をかけるのだろう。
ももは真っ白なカンヴァスに慄いたことなど忘れて、大男を見守る。
シモンはまず小皿に色を作り始めた。
使用したのはいつものセルリアンブルーではなく、紫に近い紺と赤みの強い茶色――ウルトラマリンとバーントシエンナという色だった。
二つの色を組み合わせて黒を作り、それから、赤――マゼンタを加えて、青味のグレイを生み出すと、油――独特の石油臭さがが掠めたので、多分ペトロールだろう――をいつもより多めに出して水状に溶かした。
目の前のジヴェルニーの景色にそんな色はない。だとすれば、どこにその色を使うのだろう。
細身の筆から刷毛に持ち替えたシモンに、果たしてなにを|描《えが》くのかとももは自然と胸を高鳴らせる。
真っ白な世界にかかる、青とも黒ともつかぬ、薄いカーテン。
絵画とは不思議だ。いや、《《シモン・ロンベールという画家の描く絵》》、と言ったほうがいいかもしれない。
さっきまで目を逸らしたくてたまらなかったカンヴァスに、気がつけば夢中になっているではないか。
いつもこうだ。ひとたび彼の筆が入れば、それこそ魔法にかけられたようにその筆の先を一心に追いかけている。あらゆる苦渋も絶望も、そして虚無も、すべてを忘れて。
なぜだろう。ももは、男が咥え煙草をしたまま筆を握るのを眺めながら思う。
彼の絵よりも、傑作といわれる作品は数多く存在するというのに、どうして、こんなにも惹きつけられてしまうのだろう。
目映い陽射しをたっぷりと溜め込んだ彼の世界からは、まるで強い磁力で引きつけられるように目を離すことはできない。
カンヴァスに吹く風が、匂い立つ香りが、儚い温もりが、切なく心を揺さぶっては、ももをそこに縛りつけていく。
一体、なにがそうさせるのか。そして、そのような絵を創造するのは、どんな人間なのか。
なにを思い、筆をすべらせるのだろう。その七色に変わる瞳に、なにを映しているというのだろう。
カンヴァスをブルーグレーに染め上げ、刷毛を筆に持ち替えたシモンは、指先で下塗りが乾いたかを確認して、ついに本描きを始めた。
ザッザッ、音を立てながら流れるような手つきでカンヴァスをなぞる。そこには一切の迷いがない。
「……きれい」
うっとりと呟いたももを、シモンがちらりと一瞥を寄越したことに彼女は気づかない。
捲り上げたシャツから伸びる、逞しい腕。カンヴァスを左から右へ忙しなく動くたびに、そこには太い血管が浮き上がっている。広い肩、がっしりとした首。グレーの髪がさらりと揺れては額を掠め、頬骨の天辺は光に艶めき、深い|眼窩《がんか》には、影が。
鼓動が速くなる。
呼吸が、浅くなる。
いつしか、ももはあることを思うようになっていた。
画家の、髪に指を通し、梳かすような繊細な筆使いに。纏っているヴェールを手繰って、その下に隠された柔肌を味わう、熱く、はげしいまなざしに。
――彼に描かれるのは、どんな、心地なのだろう、と。
自分の中に沸き上がる感情に、ももは戸惑う。自己顕示欲にも、独占欲にも似たその感情は、かつて感じたことのないような、もはや衝動だ。
そして同時に疑問も抱いた。
彼の絵画に、人間が存在しないことを――。
「マドモワゼル」
だしぬけに呼ばれて、ももは睫毛を瞬かせながら、ウィ、と返事をした。
「どうして、ここへ?」
創造主の頭の中は、複雑に入り組んでいるようだった。不意に、それこそ本当に予期せぬところで突拍子もない問いを投げかけられるのだから、しばしばどきりとさせられるももであった。
「あなたの絵を見に」
「そうじゃない」
間髪入れずに、シモンが言う。
ここ、と言ったのに、そうじゃないとは一体――どくどく、ももの心臓は不吉なうねりを上げ始める。
そんな彼女の様子もつゆ知らず、シモンはパレットから筆に色をとると、自ら創造した世界に新たな彩りを与えていく。
ザッザッ、均整のとれた音が響く。風が、ももの髪を攫う。
「フランスへ来た目的は?」
やがて、すべての音が止んだ。
たしかに風は吹いている。彼は、筆を動かし続けている。だというのに、ジヴェルニーの丘は静けさに包まれた。
「それは……」
重く、水底に沈むような静寂に、ももの細い指先が宙を彷徨い、やおら自らの腹部に辿り着いた。カラカラになった喉を潤そうとなんとか唾を飲み下しながら、ぎゅう、と薄手のニットを握りしめる。
頬にかかる髪も|厭《いと》わずに、視線を落とすももをシモンは見ようともしない。
ひたすら、カンヴァスに向き合い、筆を動かしている。そうして、ももに向けられたその背は、まるで堅牢な城壁のようでもあった。
「ただの、バカンス、です」
締め付けられる喉をどうにか鳴らした彼女に、シモンはただ、そうか、とだけ言った。
