第二章 雨に燃ゆる 1

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 ももは、船に乗っていた。
 行き先は決まっている。きっと鉄鋼でできていて、それなりに頑丈で、多少の波にはものともしない。その大きな船は、ゆっくりと目的地に向けて海原を進んでいくはずだった。

 ――ももは、やさしいね
 ――ももちゃんって、頼りになるなあ
 ――|伊賀利《いがり》さんは、偉いわね
 ――ももがいてくれて、よかったよ

 ――ももじゃなきゃ、アイツダメだと思う
 ――ももちゃん逃したら、あの子、結婚できへんで
 ――わかってるって、ももはほんまにええ女やって
 ――ごめん、ももに甘えてたんやな

 そう、あの時までは。

 とっぷり、波に飲まれ水の底へ沈んでいく感覚に、ももは目を覚ました。
 はあ、はあ、と荒い呼吸を繰り返す。なんとか手を這い出して、ベッドサイドのランプを点けると、もとより置かれていた卓上時計は、朝とも夜とも言いがたい曖昧な時間を指し示していた。

「まだ、四時……」
 起きるまでにはかなりの時間がある。カーテンの隙間から覗く空もまだ暗い。
 何度も息を吸って、吐いて、ももは肺の狭まりに夜着のガウンをぎゅうと抱きこむ。
「さい、あく」
 まさに、双方の肺が水で満たされたような息苦しさであった。心臓がドクドクと激しく鳴り響いている。やがて呼吸を取り戻しても、それだけは治ることはない。

 パリのアパルトマンは、静けさに包まれていた。車のエンジン音や、パトカーのサイレンも聞こえない。夜明け前にやっと街が眠りについたらしい。
「さむ……」
 その静けさが、朝の冷え込みをいっそう強くする。秋の声はもうすでに、彼女の耳の裏を撫でていた。
 もう少し眠れるだろうか。布団に潜り込んで、空っぽのお腹に触れる。夜着越しに、冷たさが|伝播《でんぱ》して体が震えた。
 ももは必死に太陽を思い浮かべながら、まぶたを閉じた。

「どうぞ」
 しばらく共に過ごしていたからだろうか、ある程度経ったころには画家がなにを求めているのか、それとなくわかるようになっていた。
 口に絵筆を咥え、宙にさまよわせた男の手に、先ほど腰からこぼれおちた布を拾って握らせる。
 突如ももがパーソナルスペースに入り込んできたとあって、男は|怜悧《れいり》な瞳を珍しく丸くした。といっても、それはほんの数秒に満たない。

「ありがとう」と、小さく礼を述べるやいなや、すぐさま瞳を元に戻した彼は、咥えていた筆をパレットを持っているほうの手にとって器用に先を拭い始めた。

 油絵の具は、水彩絵の具と違って水では落ちない。専用のクリーナーを使って――いつもアルミだか鉄だかの缶に入っている――落とすのだが、その前に筆についた絵の具を男は布で綺麗にする。
 彼の手が宙でなにかを探す瞬間を、ももは見逃さなかったのだ。
「どういたしまして」
 出会ってまだ一ヶ月も経っていないというのに、その自らの観察眼に心の中で呆れと賞賛を贈りつつも、ももは油彩絵の具の香りを嗅ぎながら、まなじりを弛めて、男が道具を片付けるのを眺めた。

 さて、男と過ごすようになってからというもの、ほかにも発見はあった。油絵だ。というのも、油絵とは実に馴染みがあるようで、全く油彩そのものには理解がなかったことをももはこの数日で思い知ったのだ。

 まず、油絵の具だ。
 日本では油彩を授業で扱う学校もあるだろうが、ももは水彩、あるいはアクリルガッシュを用いた絵しか描いたことがない。後者は乾くと耐水性がある特性はあるが、いずれも水で薄めることができるし、筆自体も水で洗うのが一般的である。
 一方で、油絵の具はその名の通り油を使用する画材だ。なんとなくそうなのだろうと想像はしていたが、いつ、どのタイミングで油を使用するのか、また、どんな油を使っているのかはわからなかったももにとっては、ジヴェルニーの丘はいい課外授業になったわけである。

 男がパレットに出した絵の具を、小皿に用意した専用の油で薄めて使ったりする光景や、何種類かの油を使い分ける姿、はたまた前述したように、油の入った缶で筆を洗う姿などは、実に新鮮でいつも新たな発見を彼女に与えた。
 他にも、筆の種類の多さや、ペインティングナイフの使い方、そもそも、どういう姿勢で、どのようにして描いていくかも詳しく知らなかったのだ。挙げ出したらきりがない。

 だが、中でも、絵の具の色に関しては特別濃い印象を刻み込んだ。
 それは、男が使っているの青にもさまざまな種類があり――これはこっそりアトリエで盗み見たのだが――それぞれ名前がつけられている、ということ。百聞は一見にしかず、とはよく言ったもので、たしかに彼女も、青が単なる青という言葉で括れるほど単純ではないとはわかっていたが、青の違いをしっかりとその目で認識したのは初めてだった。

 男がよく使うのはセルリアンブルーという名前の絵の具だった。どちらかというと、緑がかった青色だ。
 それをパレットで色を混ぜてから使うこともあれば、カンヴァスの上で色を重ねることもある。画家の手にかかると、ひとつの青は百の色に変化を遂げた。
 それはまさしく魔術師のような偉業だと、ももは大胆にも思った。なぜなら彼女にとっては、男がイメージどおりに――本当に彼のイメージどおりであるかはわからないが、きっと納得はしているのだろう――色を作ること自体が、とても高度な魔法のように思えたからだ。

「これ、どうやって描いたんだろう」
 その日、ももは常と変わらず雑多なアトリエで一枚の風景画を手にした。
 男が連日描いているセーヌ川畔を一望する風景ではなく、水際を描いたものだった。
「水が、透き通ってる」
 陽射しを浴びる水面はさることながら、砂利の敷き詰められた陸地がだんだんと水に侵食される渚を見事に|描《えが》いている。
 どうやったら、こんなふうになるのだろう。ももには不思議でたまらなかった。
 水の下にたしかに砂利がある。それぞれ別々に存在しているのではなく、しっかりと重なっている。
 現象としては当たり前のことなのだが、まったくこれを作り上げる行程は、思い|描《えが》けない。だが、男がこれを|描《か》いている姿を想像するだけで、心臓がどくどくと速くなった。

「きれい」
 喉元になにかが迫り上がるのを、ももはぐっと唾を飲み下してこらえ、熱のこもった吐息を漏らしながら、そっと透き通る水の上をなぞった。
 ざらりとした感触が指先をくすぐって、それは思いのほか胸を満たしていく。
 ――まるで、あの筆先に触れることができたように。

 ももは絵画を元の場所に戻す。と、なにかがカンヴァスに当たった。
 あ、と思ったのもつかの間。静かなアトリエに、ガタン、と重い音が響いた。

「いけない」
 油彩に使う用品だろう。ひとつ、小瓶を倒してしまったようだ。
 ももは慎重にカンヴァスを置いて、それを拾う。手のひらに余るほどの大きさの瓶にはなにやら液体が入っていた。

「……ストリッパー?」
 考えればわかることだったのだろうが、このときは実に頭がぼやけていた。なんだろうか、白いラベルに綴られた赤と黒のフランス語を眺める。
 瓶をぐるりと回してみると、とろみを帯びた無色透明の液体が中で揺らいだ。
「油、かしら」
 人間の好奇心とは、不思議なものだ。わからないならば放っておけばよいものを、その存在の不確かなものほど、ひどく魅惑的で、実体を確かめてみたくなる。
 ももは右手で蓋をゆっくりと回し開ける。

「――おい!」
 大きな声に、ももはびくりと肩を揺らした。刹那、左手に激しい痛みが走った。

「っ……」
 ――熱い。

「勝手に中を漁っていいとは許可して……どうした?」
 背後から男が駆け寄ってくるが、ももは痛みのあまり、声もあげられなかった。
「|剥離剤《ストリッパー》か」
 男はラベルを確かめることもなく、ももの手の中から瓶を奪った。
「ごめん、なさい」
 ヒリヒリと火傷のような強い刺激に、なんとか謝罪を述べるも声が掠れてしまう。ぐっと手首を掴んで、顔を歪めながらももはその先へ血潮が駆け巡るのをなんとか止めようとした。
 男は瓶を置くと、「来い」と言って、ももの腕を掴みアトリエの奥へと引っ張っていった。

 ザアザア、薄暗いダイニングキッチンに、水の流れる音が響いている。
「さっきのは、|剥離剤《はくりざい》だ」
 冷たい水の中で、赤くなったももの手を洗いながら男が言った。
「それは……」
「乾燥した絵の具を剥がすときに使う。テレピン油とは違って、絵の具自体を溶かす力がある」
 油絵の具を溶解する力があるということは、かなりの強い液体だ。蓋を開けた瞬間刺激臭がしたのも、今、皮膚が焼けるように痛むのも頷けた。
「手袋などで皮膚を覆って使うのが常識だ」などと、ちくちく小言を寄越す男に、ももは流水に打たれた大きな手を見つめながら小さく謝る。
 ももの皮膚の何倍も分厚く、ガサついて、青や白、それから緑、絵の具がついたままの男の手が、彼女の手の甲やひら、それから指間部やはらなどを余すところなくなぞっている。

「だが、私にも過失はある。君があそこにあるものに興味を持つのはわかっていた」
 頭上の鈍いライトのみが照らすダイニングに、男の低い掠れ声が響く。
 先に言っておくべきだった、そう告げる声はどことなく涸れた印象を与えるが、ひどく|艶《あで》やかだった。

「そんなこと……」
 抗えない成熟した魅力に唇を隠しながら、ももはかぶりを振る。
「わたしが、勝手に触ったから。本当に、ごめんなさ——」
 伏せていた視線を上げた彼女は、濡れた唇をだらしなくも半開きにした。
 すぐそばに、ダビデ像のような横顔があった。その睫毛の繊細さや密度、さらにはその奥の瞳の色までも、はっきり認識できるほど、近くに。

 斜めに差し込んだ橙の光に、精悍な横顔が照らされている。
 色素の薄い睫毛に縁取られたヘーゼルの瞳は、昼間深い緑色だったのを今や輝かしい|金色《こんじき》に染めている。それから、高い鼻すじに、すっきりとした頬、カサついた、こぶりな唇。

「とにかく、油彩の道具には、人体に悪影響を及ぼすものもある。あの液体がいい例だ。ほかにもテレピン油、ペトロール、詳しくは、また説明する」

 男が話す間も、半ば手のひらの痺れに浮かされたようなまなざしで、ももは男を見つめていた。
 あごに広がる、およそ数日分と思われる髭。気難しそうな印象を濃くするが、それが、かえって、男の綺麗な顔立ちを男らしく見せては、彼女の白い喉元を疼かせた。

「……いいな?」
 ウィ、ムシュー、か細いももの声がザアザアと流れる水音に溶ける。

 しばらく、ももはそのままだった。大きな手が自分の手の甲を撫でるたび、伏せた睫毛がライトに瞬くたび、ほのかに苦い香りが鼻を掠めるたび、目の奥に|戦慄《せんりつ》が走った。だが彼女は、じっと、じいっと男の横顔を見つめていた。そのこげ茶色の瞳を鈍く赤色に染めて、それこそ、|陶酔《とうすい》に近いまなざしで。

 いつからだろうか、彼をそんな目で見るようになったのは。

 彼女の視線を遮るものはなにもない。男は気づいているのか、いないのか。はたまた、気づいていながら、知らぬそぶりを見せているのか、流れる水をひたすら追いかけているのみであった。

「名前は」
 やがて、その沈黙を破ったのは、男だった。

 かさついた唇の、ゆったりとした動きに疼きを強めながら、ももはごくりと唾を飲み下して答えた。
「……モモです。モモ・イガリ」
 あなたは? 次いで、訊き返す。
「シモン・ロンベール」
 シモン、ロンベール。ももは小さくその名を口の中で転がした。もちろん、ムシューというのをつけるのを忘れずに。

 シモン。
 シモン・ロンベール。
 ムシュー・シモン・ロンベール。

 何度も何度も脳裏で繰り返した。それは、彼女を格調高き詩を諳《そら》んじるような心地にさせた。
「ムシュー・ロンベールと呼んでも、構いませんか」
 夢中になってこぼした吐息を搔き集めて、ももは言った。
 この熱が伝わってはいないだろうか。ももは案じたが、シモンは動じるそぶりを微塵も見せることはなかった。

「好きにすればいい」
 |コム・ヴ・ヴレ《Comme vous voulez》――淀みなく告げる彼に、ももは唇を舐める。

 アトリエに来たばかりの頃にも、投げられた言葉だ。だが、以前とは違う。少しばかり呆れを含んだような、微かに丸みを帯びた声にも聞こえた。

「ありがとう、ムシュー・ロンベール」
 流水で念入りに剥離剤が落とされた手のひらは、ヒリヒリとした感覚が薄くなっている。心なしか、胸の内にあたたかななにかがじんわりと滲んだ気がして、ももは魔法を唱えるように声を震わせた。
 水を止め、ももの手をやさしくタオルで挟みながら、シモンは、|どういたしまして《ドゥ・リアン》、と顔色を変えずに言った。

 ワックスの禿げたフローリングに、二つの影が伸びている。不思議と、ぴったり寄り添っているように見えた。

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