第三章 光と影 9

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 午後、二人は各々の生活に戻った。シモンはアトリエで制作を、ももは雨上がりのジヴェルニーを眺めるために丘を降りた。
 雨上がりのパリは格別だと昔スクリーンの中である俳優が言っていたが、この田舎町もなかなか負けていない。
 水溜りに映る青空へひとつふたつと飛び込みながらクロード・モネ通りを歩く。なんと清々しいのだろう。ただひたすら商店を眺めるのでさえ、なにか特別な宝を探しているような心地であった。

 オーガニック食品を扱う店で午後のティータイムにぴったりな茶葉を見つけ、ももがアトリエに帰ると、シモンは作業台に頬杖をついて、居眠りをしているようだった。
 珍しいことがあるものだ。閉じられた瞳を眺めてももは思った。意外にも朝が弱いのか、もものほうが先に起きることはあれど、アトリエで彼が無防備な姿を晒すことはそう多くない。煙草を吸いながら日光浴でもしていたのか、そばには巻き煙草の残骸が転がっている。
 また片付けもしないで、と眉を下げながらももはそれを集めてゴミ箱へ捨てる。ポロポロとフィルターからこぼれた葉が机に舞ったが、丁寧に指でつまんで片した。
 それが済むと、紅茶でも淹れて自分もひと休みしようかと考えた。だがどうしても、崩れ落ちそうな体勢で器用に目を閉じる画家のそばから離れがたいとも思った。

 射し込んだ光に、錫色の髪が瞬く。くしゃっとした、さわり心地のよさそうな髪。
 はじめて出会ったときよりも、少し伸びたかもしれない。ところどころに混じった白髪が、彼の隠された優しさを映し出すようにまったりと光を溜め込んでいる。
 閉じられた瞳を覗くと、下まぶたのあたりに絵の具がついているのがわかった。彩度の低い、黄みを帯びた灰緑色。
 彼の近く、イーゼルに立てられたカンヴァスはその色に染められている。きっと、あの森でも描くのだろう。
 まるで、大きな子どもみたいだ。ただひたすらに筆をとり、夢中でカンヴァスの上を走る。いくら絵の具まみれになっても、気づかない。

「シモン」
 そっと彼の安らかな寝顔を見守って、その名を呼んでみる。
「シモン」
 その一音一音を抱きしめるように、唇に載せる。
 なんて美しい音色だろう。なんて、儚い音色だろう。舌に溶け出したこの上ない甘味と、ほんの少しの苦味が全身に沁み渡る。
 一体、この人はなにを背負っているのか。秀でた額が落とす影にはどことなく哀愁を感じさせる。大きな背は、古びた床に大きな影を作っている。
 それを知りたいと思うのは|傲《おご》りか。それをそっと請け負ってあげたいと思うのは|自惚《うぬぼ》れか。
 インターネットが普及したこの時勢、二十年前のことなど調べれば容易く手にすることができる。だが、ももはそれをしなかった。
 なぜ? 彼の心の|裡《うち》に隠されたクローゼットを覗くようで、いたたまれなかったからだ。
 実際にももがそうであるように、勝手に探られたくないことだと思った。話してくれるまで待とう。あるいは、ずっと知らなくてもいい、と。
 たしかに浮かび上がる欲望こそを自らのクローゼットに押し込んだ。

「シモン」
 ももは、その名を囁く。
 まぶたについた緑に手を伸ばす。すっとなぞってみても、それは消えない。あとでせっけんでしっかり洗わないと落ちないだろう。
 なにもないグラスに水を注ぐように、満たされていく胸に眦を緩める。
 やがて、こめかみへ伝い指を頬まで下ろすと、その手を大きな手のひらが掴んだ。声を上げる間もなく引き込まれて、男の胸の中に飛び込む。
 香ばしいたばこの匂いがする。それから、油と、土のにおい。とくりとくりと伝わる鼓動に耳を澄まし、ももは自分を包む熱に身を委ねる。
 ザラついた感触が頬をもてあそび、音もなく、二人の唇は重なった。

 互いの熱をわけあい、じっくりと唇の感触を味わってから、その奥を暴いていく。
 薄い上唇とぽってりとした下唇のアンバランスさ、かすかにかさついてはいるものの、しっとりとしたやわらかな感触、ももの下唇をまるで赤子のようにそうっと食むところ。まさに、シモン・ロンベールという男を象徴しているようだった。

 |淫猥《いんわい》な音も立てず、理性的で、紳士的で、百獣の王のような大きな|躰《からだ》をしているというのに、あまりにもその口づけは繊細だ。だが、同時に、こんなにも情熱的な口づけを彼女は味わったことがなかった。
 初めて彼がももを食らったときも、たしかにその行為の激しさで言えば今の数倍も凄まじい勢いを持っていたが、これほどまでに内なる熱を分け与えられたわけではなかった。

 膝の上に彼女を乗せ、何度も何度も角度を変えて、シモンはももの唇をさらう。その優しさに、温もりに、ももは彼のフリースシャツを掴む。
 二人に言葉はない。だが、言葉以上のなにかがそこにはあって、彼らはそれらを手繰り寄せ合っていた。
 大きな手がももの腰をなぞり、彼女の華奢な背を|模《かたど》っていく。
 反った背骨に、下着の食い込んだあばら、それから、今にもはばたいてしまいそうな、羽の付け根。彼の手にかかると、まるで自分が貴重な美術品であるように思えてしまう。それこそサモトラのニケのごとく、唯一無二の|芸術《アート》。
 熱く、逞しい手のひら。それは、紛うことなき創造主の手。そして、救世主のそれでもある。
 だが、この瞬間、それは母の背に手を伸ばす迷い子のようにも思えた。
 唇が離れ、シモンの唇が彼女の首を辿っていく。その繊麗な快感に体をのけぞらせながら、ももはシモンの背に手を伸ばす。丸まった男の背。その広大な背中は、いくらそのすべてを抱きしめようとしても、手が届かない。なんともどかしいことか。
 顎をくすぐる猫のようなやわらかな毛。鼻腔を掠める彼の頭皮の匂い。鎖骨を吸い上げるたおやかな唇に、彼女を|模《かたど》る優しくも精悍な手。

「シモン」
 ももは祈るように彼を呼んだ。
 唇が離れ、ヘーゼル色のビー玉の瞳がももを捉える。
「きれいだ」
 洋梨のコンポート色のとろりとした日差しの中、それはたしかにかすかな憂いを帯びていた。彼の内に積み重なった影のせいか、それとも、生まれながらのものか。ももははっきりとはわからない。
 ただ、その翳った瞳が、花開くかのごとく弛むさまをいつか見てみたい、そう思った。
「あなた、カヴァネルのヴィーナスでも、見ているのかしら」
 情感をこめた笑みを頬に載せ、ももはその憂色の瞳にキスを落とす。
 背中を抱く力が強くなり、彼は彼女をその腕に閉じ込めたまま立ち上がった。再び唇を繋ぎ、互いの中に息づく孤独や|倦怠《けんたい》、あるいは絶望を分け合い、彼らは|影の中《寝室》へと溶けていく。

 彼はわたしを愛さない。
 わたしは彼を愛さない。

 とうに、心に彼だけの特別な空間ができあがっているのを知りながら、ももはシモンと体を重ねる間、自身にそう言い聞かせた。
 とけてしまうほどの快感とともに、裂けるほどの痛みを感じながら、必死でその痛みを甘受し、自分のなかに刻み込む。……

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