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その日、ももはシモンのアトリエに泊まることになった。
自らの傷を打ち明けたことで、ももはその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、変わらずシモンはなにも彼女に問うことをせず、静閑とした湖畔にたゆたう船となり、行き場を失い水底に沈みゆくももを引き留めた。
秋のしめやかな空気の中、向かい合って昼食を摂り、午後はアトリエで過ごした。シモンがひたすら描き続けるのをももが眺める、すでにそこにはいつもと変わらぬ日常が重なっていた。
男の顔からはあらゆる感情が削ぎ落とされていて、憐憫の色も|阿諛《あゆ》するそぶりも、あるいは、|斟酌《しんしゃく》することさえそこには窺えなかった。だが、それがかえって、ももを苦しみの果てから解放した。
感情を無理に引き出させず、自らを偽ることもない。なにものでもない、それこそ、伊賀利ももという自身のアイデンティティすらを傍へ置き去った状態で、シモンの生み出す|芸術《アート》に没入することができた。いや、没入とまではいかないかもしれない。たしかにももの意識はあったが、彼女のもとにきちんとあったかは、不明だったからだ。
静穏な午後を過ごしたあとは、古びた電球のもと夕食を摂った。テレビもない、互いのカトラリーの音が支配する世界の中で、レンズ豆のスープにラザニアを。缶詰と冷凍食品というどちらも加工食品ではあったが、さすがは美食の国ともあってか、その味は案外悪くはなかった。
夕食後は、シモンは夜風に髪を靡かせて煙草を、ももはその隙にシャワーを浴びた。着替えなどなかったので、乱暴に突きつけられた男の大きなシャツとリネンのボトムスを借り、下着は仕方なしに洗って、ストーブの風でできるところまで乾かしてから身に着けた。
「まるで、子どもだな」
余った袖と太ももの中ほどまで伸びた裾、それから、だぼだぼのスラックスを引きずるももを見てシモンは鼻で笑った。恥ずかしくなって気難しく顔を歪めると、シモンは頬にかかった彼女の髪をよけて細い腕をひっぱった。そして、いともたやすく男の胸に飛び込んだ彼女を、それこそ子どもを抱くようにかかえて、寝室まで連れて行った。
城の最深部入るのは、二度目だった。大きなベッドに落とされ、身をこわばらせ瞑目するももに、男は一切触れてこなかった。
ギィ、とスプリングが軋む音がする。やがて、隣に訪れた重みにベッドが沈み、かすかに、煙草と、それから油の匂いが掠める。ももはおそるおそる目を開けた。
「寝ろ」
あまりにもすげない言いようだった。月明かりに浮かぶ顔も、寝入りに見せる父の優しい顔などとはほど遠い。無表情な男のあまりに不器用な優しさに、ももは笑わずにいられなかった。ふっと吹き出したももをシモンは怪訝そうに横目でじろりと一瞥する。だが、ついぞその瞳に込められた文句を、口に並べることはしなかった。
「おやすみなさい」
ひとしきり笑って、ももはシーツの海にもぐりこんだ。寒さに引き締まった空気との温度差が心地よい。目を閉じると、彼女の頭蓋を大きな手が撫でた。あたたかくて、無骨で、ひどくやさしい。
ももはその夜、吸い込まれるように、眠りについた。
翌日、カーテンから射し込む日差しに目を覚ましたももは、久方ぶりの深い睡眠に我ながら驚いていた。
薄暗い部屋に、小さな小さな埃がキラキラと舞っている。肌を包む空気はすっかり冷えて鋭くなっていたが、けして寒さを感じない。
自分の右隣には、シモンがまだ覚めない夢の中にいる。大きな体を窮屈そうに折り曲げている様は、どこか大型犬のように見えなくもない。ドーベルマンほど鋭く屈強な感じはしないので、シベリアンハスキーか、シェパードか、あるいは、ボルゾイ。
そんなことを考えながらできる限り物音を立てぬように横へ寝返りを打ち、ももはこちらを向ている男の顔を眺めた。
「かわいい」
落ち窪んだ目元には、これまで送ってきた人生を刻んだかのようにいくつかの線が見受けられる。だが、まぶたを閉じた男の顔はどことなくあどけなさを残していた。気難しく寄せられる眉根も、意地悪く細められる瞳も、それから歪められた唇も、今はそこにはない。
ももは彼の面立ちを目でなぞった。露わになった額に光を集める銀色の睫毛、それから高く通った鼻すじ、なだらかな頬、そして薄く開かれた唇。やはり、きちんとすればかなり整った見た目になるだろう。ロダンの彫刻、あるいは中世以前に彫られたオリュンポスの神々。
ただこの瞬間は、薄っすらと生えた無精髭すら彼を野暮ったい無垢な少年に見せているのだが。
この人が、あんな筆使いで絵を描くなんて。
思わず、手が伸びる。頬と、顎と。やさしくなぞるたび、指先にふれる髭がこそばゆい。
小さな光の結晶が舞う中、シモンが身じろぎをした。額にかかった髪をよけ、そこへひとつキスを落とすと、ももはベッドから這い出た。
起き抜けのコーヒーでも淹れようかと伸びをして、まず向かったのは洗面所だ。
少々うろこのついた鏡の前に立ち、ももは手ぐしで髪をとかす。きちんと乾かさずに寝たからか、髪は軋み絡んでいる。気怠さをどことなく残した手つきで、念入りにほどいていく。だが、途中でその手はぽろりと落ちた。
なんて顔をしているのだろう。瞳に映る自分の姿に茫然とした。
薄っすらと熱の宿った頬に、濡れた瞳。唇はカサついているが、始終やわく弧を描いている。
そまさしく、「《《女》》」の顔であった。
そんな、まさか。かぶりを振って、ももは顔を洗う。だが、その顔がとれることはない。泣きそうな表情で笑って、ももはもう一度首を横に振る。
――どうか私を愛さないでくれよ
脳裏に男の声が掠める。
ウィ・ムシュー。ももは独りでに呟く。
白い指を毛先に通し、何度かとかしたあと、ざっくりまとめて洗面所をあとにした。
不必要に物音をたてぬよう、湯を沸かす。いつもより何倍も気をつけたが、それでもやはり、パリのアパルトマンより何倍も古いこの小屋では音が響いてしまう。
ももは、流しの上の出窓に置かれたインスタントのコーヒー缶だけ台におろしておくと、アトリエへ移動した。
薄いリネンのカーテンを捲ると、ももは光の中に包まれた。西陽とは違って、灼きつけるほどの痛みはない。まるでミルクを注ぐように窓から溢れる朝陽に、作業台のテレピン油や、チューブ、それからパレットナイフが輝いている。昨日よりも鮮やかに、そして華やかに。赤や青、緑や橙、紫に、黄色、あらゆる色彩がそこかしこでこぼれて、七色に光を放つ。
土と水と緑の豊かなセーヌの香りに、テレピン油の匂い、それから、スンと鼻の奥にこびりつくような埃っぽさ。思わず、いっぱいに息を吸い込んで、握った拳をぎゅっと胸に抱く。
どれほどそうしていただろうか。カタリ、床板が軋む音がして、ももは振り返った。
寝癖も直さず、宵を孕んだ装いのシモンが立っていた。
じい、とこちらを見つめて、微動だにしない。
これじゃあ、まるで、《《いつもと立場が逆じゃないか》》。ももはおかしくなって、立ち尽くしたままの男に、「おはよう」と微笑んだ。
この日を境に、ももは日が暮れて鬱蒼とした気持ちでパリへの特急列車に飛び乗ることはなくなった。
男と出会ってから、約二ヶ月。夏から秋、そして、季節は冬へと移り変わろうとしていた。

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