第三章 光と影 4

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 しばらく空想と現実の狭間を満喫して、散らかったシモン・ロンベールの城を出ると、どこからか、にゃあ、という鳴き声が聞こえてきた。
「あら」
 イーゼルに向かって仁王立ちをするシモンの足元に、ブラウンタビーの猫がすり寄っている。
「野良猫?」
「さあな。普段は人間がいると寄ってこないが、どうやら《《ついに屈服》》したらしい」
 シモンはその人間が誰かを示さなかったが、まちがいなくそこに自分が含まれるだろうと確信した。長い体躯を屈めて、煙草を持たぬほうの手で、にゃあん、と甘く喉を鳴らす猫を撫でる。妙に慣れた手つきだった。
「猫、好きなのね」
 心なしか彼のまとう空気が緩んだ気がして、その一人と一匹の姿を眺めてももは呟く。
 ああ、と意外にも返事があった。
「パリに居たときはシャルトリューを飼っていた」
 シャルトリュー種、たしか、かのシャルル・ド・ゴールも愛したという|国産《フランス》の猫だったか。だがそれより、パリに居たとき、そう男の口から自らの過去について語られたことにももは気を取られていた。

 なにか言いたげなももに、男は煙草を咥えて呟く。
「パリは窮屈だろう」
 彼の手はいまだ猫の顎を撫でたままだ。
「……ええ」ももは迷うそぶりも見せず、静かに答えた。昔ならばそんなことがあるはずもないと、口答えしていただろうに。
 やがて、猫は男のその手に満足したのか、丘を下りて行った。

 それからほどなく、戸外制作を休止して、アトリエに入った。塗料だらけの作業台の上で、シモンは巻き煙草を巻いている。いつもは日に一、二本、吸うか吸わないかというところなのに、今日はやけに本数が多い。もしかすると、ももが知らないだけで、日ごろ就寝前などに何本もふかしているのかもしれない。

「きみ、芸術をかじったことは」
 そんな彼に背を向けて、ももは無造作に放られたカンヴァスの山を切り崩していた。だしぬけに訊ねられて、彼女は、「まったく。学生時代、展覧会に行ったきり」と姿勢を変えずに答える。
 先ほども同じようにカンヴァスを漁っていたが、今度は探る意図はなしに、ただ純粋な眼で彼の絵画を一枚一枚眺めていた。

「そうか、それは損しているな」
 色を孕んだ声に、ももはシモンを振り返った。
 煙草を巻き終えたのか、口に咥えて火をつけている。カチ、カチ、ライターが爆ぜ、巻紙が燃える。額にかかった髪を軽くふり払いながら深く息を吸うと、シモンはそれを長い指先に挟んで煙を吐き出した。
 脚を組み、机に肘をつきながら煙草を嗜むその姿は、隠居生活のモネというよりかは、一九二〇年代絢爛のパリでショットグラスを傾けるヘミングウェイに見えなくもない。

「そうね」
 ももは軽く微苦笑を浮かべながら肩をすくめる。
「もっと|芸術《アート》について学んでおけばよかった、って今は思う」
 小中高、と図工や美術の授業を受けてきたが、それらはももの人生になんの影響も及ぼさなかった。空白の時間であり、空白の経験。もしかしたらどこかに培われているのかもしれないが、生きた芸術にやっとのことふれた今では、なぜもっと早くにこの感動を見つけなかったのだろうと思う。
「日本人は世界屈指のアート好きだと聞いたことがあるが、君は多分に漏れたようだな」
「どうかしらね」
 ももは、そばにあったカンヴァスのふちをなぞった。
 たしかに、日本にはそこかしこに美術館があり、小さな画廊も含めると街にはアートを展示する場は溢れている。だが、真の意味で芸術を好み、日本人の多くがそれらを愛しているかというとまたそれは別の話だ。
「定期的に有名画家の展覧会は催されてるし、盛況してる。でも、たいていは、自分の家に絵画を飾りたいとは思わないもの」
 フランス人にとって、あるいはヨーロッパ諸国の人々にとって、アートは生活の一部であり、人生に欠かせないもののひとつでもある。彼らの、絵画をはじめとする芸術全般への理解と造詣の深さにはたびたび驚かされたものだ。彼らは芸術を友として受け入れている。
 対して、ももにとっては、芸術とは高尚な、それでいて権利と富の象徴であり、はたまた理解しがたいもののひとつであった。それゆえ、ももは油絵の具がどういうものかも、テレピン油がどんな匂いがするのかも知り得なかったし、画家たちがどんな姿勢で製作を行なっているのかも、彼女の想像に上ることすらなかった。

「教養として、画家たちの名前は知ってる。絵も見たこともある。ゴッホのひまわりが来日した際に見に行ったときは、たしかに、すごいな、と思った。けれど、それはあくまでゴッホの絵だったから」
 シモンは、そうか、とも、気の毒だ、とも言わずに煙草に口をつける。
 ももは気にも留めず、立てかけられていたカンヴァスのうち、指先で辿った先の一枚を手にしてシモンの斜め前の椅子に腰掛けた。

「この絵、とっても好き」
 雨のヴェルノンの街並みだった。滲んだ青い世界に、灯火が揺らいでいる。シモンが雨のヴェールをたぐり、もものもとへ飛び込んできた日に描いていた絵だった。
「寝室に飾りたい」
 ももは少し声をうわずらせて言う。
「君を描いて欲しかったんじゃないのか」
「もちろん、描いてくれるならそっちにするわ」
「十万ユーロを積んでから言うんだな」
 男の冷笑にももは小さく目を回した。

「あなたは、モネが好きだからジヴェルニーに?」
 お気に入りのカンヴァスの凹凸をなぞりながら訊ねると、どうだかな、と彼は灰を落とした。
「だが、実際モネは素晴らしいぞ。彼は心から描くことを愛していた。彼の絵は幸福に満ち、また、カンヴァスを前にした彼自身の高揚を、遥かなる時を越えて尚、我々に突きつけてくる」
 珍しく饒舌だ。いつもの陰鬱で、厭世的なしゃべり方とはちがい、格段熱のこもったそれにももは口元を緩める。
 ひと息に言いきって、煙草を深く吸ったあと、シモンは自分の吐き出した紫煙を見つめるように天井を仰いだ。こつこつ、空いたほうの手を、軽く机に打ちつけていた。

「君の好きな画家は」
 彼の尖った喉仏や、髭の伸びた顎、それから、かさついた唇に秀でた鼻梁と窪んだ目元。
 それらを瞳で|模《かたど》りながら、「あなたよ」と、ももは言う。
 シモンは動きをとめ、目だけでももを追った。

「モネよりも、ゴッホよりも、ルノアールよりもピカソよりも、あなたの描く絵が好き」
「比べる対象、がてんでバラバラだな」
 やれやれとたばこを押しつぶした男に、堪えきれず笑みをこぼすももであった。

 しばらくしてからシモンは立ち上がり、小さな木箱の上に丸めてあった画布を広げて木枠に張り始めた。
 ときおり見かける光景だったが、ももは静かにそれに見入った。精悍なシモンの横顔、よれたカーディガンからのぞく逞しい腕。力がこめられるたびに、血管が浮き上がり、シモンの男らしさが表れる。普段の繊細な手つきはそのままだが、それでも、その仕草は新鮮だった。
 水面に浮かんだ船の上に、彼女も一緒に乗っている。静寂な湖畔で、霧がかった辺りを進むことなく、その場にただたゆたう。

 カン、カン、と軽やかな音をたてて、タックスを埋め込んだシモンは、画布にたるみがないかを確認するとももの声をかけた。
「君ならなにから|描《えが》く?」
 ももは、ハッと思惑の船に横たえていた身を起こす。
「そんなこと、急に言われても」
「頭が堅いな。なんでもいい、自由に考えろ」
 そう言って、シモンは自ら張ったカンヴァスをももの目の前の壁に立てかけた。

 真っ新なカンヴァスがももの目を灼く。
 ひとつのシミもない、目映くて、力強くて、昨晩見た光景に、そっくりな色だった。

 ――伊賀利さん、終わりましたよ

 突如目の前にヴェールがかかる。
 耳はふさがり、周りの音が消える。それだのに、脳にさまざまな声が蘇る。

 ――妊娠一ヶ月です
 ――もも、結婚しよう
 ――心音もしっかりしてますし、順調ですよ
 ――女の子やったらええな
 ――妊娠二ヶ月、うん、いいですね
 ――彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで
 ――妊娠四ヶ月、あと少し、安定期までがんばりましょうね
 ――ちょお、不安なって。ほんまに出来心やった
 ――伊賀利さん、残念ですが

 眩しい、やめて。その色は嫌いなの。
 ももはカンヴァスを見つめたまま、その汚れなき白に飲み込まれていく。全身が冷え、指先から感覚が失われる。

 いやだ、おねがい、苦しい、苦しい、苦しい――!

「――おい!」
 光の海に、影が落ちた。
 ハッと瞬くと、シモンがこちらを覗き込んでいた。
 シモンの色の濃く重い影が、ちかちかと目を切り裂く真白のヴェールを引き上げる。
「どうした、顔が真っ青だ」
 唇が震える。カチり、歯かぶつかって不愉快な音を奏でる。
「夢を、見たの」
 小刻みに痙攣する指先を必死に握って、ももは紡ぐ。
「悪夢か」
 小馬鹿にするように息をついたシモンだったが、その顔はぴくりとも笑っていなかった。
「……す、夢を」
 声を掠れさせたももに、シモンは、「なに?」と耳を寄せた。

「子どもを、殺したときの夢を」

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