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目がさめると真っ白な世界が広がっていた。太陽にさらされた新しいカンヴァスのように、なににも染められていない、唯一の色。
「伊賀利さん、終わりましたよ」
それは絶望の色であった。
もはやパリの朝は凍てつくような寒さだった。まだ晩秋というにはさほど夏から遠のいていないというのに、真っ暗なアパルトマンで目を覚ますと、ももはありったけの洋服を着込んでやかんを火にかけた。
ほんの少しの水と、近くのスーパーで買ったティーバッグを煮出し、いくらか色が滲んだらそこへ牛乳をそそぐ。いつもならば朝は、カフェ・オ・レを淹れるところだが、今日はミルクティーという気分であった。膜が張らないように温度に注意しながら、ティースプーンでたっぷり砂糖を落とす。まったりと濃厚なミルクティーだ。
はふ、はふ、と冷まして、ももはそれを口にする。舌にはまだ熱かったが、凍てついた体を温めるにはちょうどよい。
絡みつくような喉の渇きと、一向に震えの止まらぬ指先をどうにか鎮めて、夜が明けたころに、ももはアパルトマンを出た。
列車の中で、ももは目映い光を心に宿さぬよう、昨日のことを思い起こした。
画商がやってきて、ももに落としていった、シモンの欠片のことだ。
今からおよそ二十年まえ、パリを中心に台頭した若い画家がいた。
かの印象派画家を思わせる躍動的なタッチに、女神の口づけを落とすような繊細な色遣い。爆発的なグローバル化の時代、モダンアートはもちろん気鋭のユートピア的思考をとりいれた新興派などといった押し寄せる荒波をものともしない勢いがその画家にはあった。
それが、シモン・ロンベールという男だった。
彼が有名な画家であったことに、ももは内実さして驚いてはいなかった。むしろ、妙に納得したところがあったと言っていい。ただ、その欠片を拾いあげたとて、ももにとってシモン・ロンベールという男を《《知る》》には及ばなかった。
シモンの絵画には、写実性よりも強い神秘的ななにかがある。
目に映る景色や、肌や嗅覚、聴覚で感ずるその一瞬の美しさを絵筆に留める多くの画家たちと、一見して共通しているようにも思えるが、ももには似て非なる唯一のものだと認識していた。
全盛期と言われるころの作品は、個人所蔵が多いからかネットで探しても閲覧することはかなわなかったが、彼の描いた絵はモネよりも、マネよりも、ゴッホやルノアール、あるいはピカソやゴダールよりも、ももの胸をひときわ震わせるのはたしかだった。それらの画家よりもシモンの絵画が優れているかどうかは別として、いわば彼女にとって彼は『|特別《seul et unique》』。
なぜ彼の絵画に惹かれたのか。なぜ、シモン・ロンベールという画家に魅せられたのか。
西陽の強く射す、目映い丘。光を集め瞬く髪や頬、精悍なまなざし。窪んだ目元には影が差して、一心不乱に、一瞬の風をも愛撫するかのような熱く繊細な指先を動かす。
芸術など深くわからない、だが、たしかにそれこそが芸術だと思った。形容しがたい、心の揺さぶりがそこにあった。
彼の絵画には光があふれていた。彼自身もまた光に包まれていた。ならば、光に焦がれたというのか。
――ちがう。
がたん、ごとん、列車の揺れに、右肩へ冷ややかな感触があたる。滔々と、シモンにあの問いをぶつけたあとのことが蘇る。
「あの画商か」
ひと呼吸おいて、一瞬の静寂を裂いた声にももは息を飲んだ。
「あなたが来る前に、ここに来たわ」
「そうか。またどうせ絵を売れとかいう脅しだろう」
視線を外し、シモンは再び絵画に集中する。先ほどの問いなど意に介していないような装いだった。あるいは、それ以上の追随を許さぬ拒絶の表れか。
「また来る、そう言ってた」
それだけ言って、ももは男の過去について追及するのを辞した。そのかわり、その男のうしろに回り、彼の絵を眺めた。
シモンは彼女に一瞥を送ったようだが、すぐにまたまっすぐ視線を戻し、絵筆に神経を集中させた。
深く青々とした山岳風景に白木の椅子、そこへ、黄色い鮮やかな草が生い茂る。純白の椅子などここにはないが、きっとこの丘の風景なのだろう。鮮やかな植物に自然と目がいく。太陽に染まった、豊かさの象徴。
だが、ももはそこでハッとしたのだ。
シモンの横顔を窺い見る。
陽が射して、張り出た額が金色に縁取られている。眼窩は深く、《《影を纏い》》――そうだ。
光あるところに影が生まれるように、影があるところに光がある。
ももは絵画に目を戻した。
黄色い海、白い椅子、そして、闇色を孕んだ山々。単なる、青ではない。皮膚が粟立つ。指先がチリチリする。
ももはその《《影》》に見入っていた。
ヴェルノンの駅について、ももはいつものルーティンを重ねた。どこよりも早く開いているブーランジェリーに立ち寄って、焼きたてのクロワッサンとパン・オ・ショコラを購入する。それから川沿いの市場で平桃を手に入れたあとはクレマンソー橋を渡った。
丘に着く頃には山間から目映い朝の陽射しが注いでいた。まだ街が動き出したばかりの時間帯であったが、どうやら画家の朝も早かったらしい。すでにイーゼルを立てて、洗われた朝陽の中にシモンが佇んでいた。
「ボンジュール」
声をかけると、シモンはやおら顔をあげた。その手には、巻き煙草が握られている。素早くまばたきをしたようだったが、常の仕草でそれを吸って、「ボンジュール」と彼もまたあいさつを返してきた。
画家の立つ場所は、まさにこの丘の特等席であった。朝露の豊かな海の間、まだ汚れの知らぬ陽光を浴びている。風がそよぎ、セーヌからの青々とした芳醇な香りを運んでくる。まるで、舞台のスポットライトが当たったかのような場所だ。だが、シモンがそこに立つと、すべてが一転した。
夜の気怠さと陰鬱さを孕んだ立ち姿、目映い光を疎ましそうに、だがどこか慈しむように伏せられた瞳。
動作ひとつひとつが緩慢で、泰然としていて、静かな水面に浮かぶ木の船みたいだった。きっとその湖は底が深く、それでいて水は青々としているのだろう。鬱蒼とした森の中で、何人も寄せ付けない。
ももにとっては、静謐な、唯一無二の場所であった。
シモンが下塗りを施したカンヴァスに筆を入れていく間、ももはキッチンでコーヒーを淹れた。シモンの顔を見たら、クロワッサンを食べたくなったのだ。パン・オ・ショコラは男の嗜好品のため、食べたら文句が飛んでくる。
軽やかな食感を残したままのできたてのクロワッサンへバターを軽くのせて、あたたかなコーヒーに浸して食べる。パリっ子がよくやるクロワッサンの食べ方だった。
朝食を終えてからは、アトリエのシモンの絵画を眺めた。乱雑に重ねられたカンヴァスや、立てかけられたそれを、鑑定士にでもなった心地で壊さぬように気をつけながら一枚一枚手に取る。なにげない風景でも、どこにでもあるような川辺の姿でも、シモンの手でカンヴァスに切り取られたそれは、至極美しい。
寝室に、あるいはリビングや玄関に、彼の絵が飾られたらどんな心地だろう。今までこんなことを考えたことはなかったが、朝起きて、ぼうっとその風や音、匂い、そして光に想いを馳せる。家を出るときに、ふとした瞬間に、彼の絵に祈る。考えただけで、胸が熱くなった。やはり、ももにとってこのアトリエは宝の山だった。
途中、昔の絵がないかと探してもみたが、見事に有名画家の過去の残滓は見当たらなかった。

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