第三章 光と影 2

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 夏の香りもすっかり空の向こうへと攫われ、小麦色の海がそよぐ真昼のこと。ももがアトリエの床から画家の落とした絵の具のチューブを拾い集めて丘へ戻ると、一人の男の姿があった。

「相変わらずだ」
 長い体躯をすっぽり覆う外套に、頭に載せたハットを甲斐甲斐しく手にとりながらシモンの絵を眺めている。その横顔に見覚えがあった。
 ボンジュール、と控えめに声をかけると、男は洗練された仕草で振り返った。
「これはこれは、いつぞやのお嬢さん」
 端正な顔にしっとりとした笑みを浮かべ、|コマン・サ・ヴァ?《ご機嫌いかがかな》 と訊いてくる様は、どことなくマリー・アントワネットのような艶美さを感じさせる。
 貴族階級の出自かと思いを巡らせながら、ももは、|ジュ・ヴェ・ビアン・メルシー・エ・ヴ?《ええ。あなたは?》 と常套句を返すと彼は笑みを深めた。
「シモンはいますか?」
「ムシュー・ロンベールはちょうど、今、駅のほうまで買い物に」
 以前、ももがここへ訪れるようになって間もないころも、彼は田舎町に不釣り合いな三揃いの背広に身を包み、仰々しいアタッシュケースを持って現れたことがあった。
 ファーストネームで呼び合うことから懇意にしていることはわかったが、あの人を寄せつけない画家ど一体どのような仲なのかはジヴェルニーの青い風に消えたままである。
 社交界に君臨するような紳士と、アトリエに籠城した画家。それこそモンマルトルの丘で寂れたカフェのアブサンを傾けているのが似合うシモンと彼の間にあるものとはなんなのか。
 それを考えるあまり顔に出ていたのだろう男はももの返答に顎を撫でると、それから外套の内側に手を突っ込んで名刺を取り出した。
「失礼、パリ一区で画廊をしております、ジャン=クロード・ベルジュラックと申します」
 いかにもフランスらしい名前に、ももはその名を反芻する。
「ムシュー・ベルジュラック」
「ええ」
 たしか、そんな名前の騎士がいたような。彼はにっこり笑みを返す。
「ジャン=クロードで構いませんよ、マドモアゼル……」
「モモです。モモ・イガリ」
「マドモアゼル・モモ。可愛らしい名前だ」
 ジャン=クロードの優美な笑みにどことなく居心地の悪さを感じながら、ももは彼の手をとってかすかに口元に半月を描いてみせた。

「ジャン=クロード、あなたはムシュー・ロンベールにどんなご用で?」
 シルクハットを頭に載せる仕草ですら洗練されている。太陽を跳ね返す金糸は、シモンとはまるで真逆の存在だ。
 パリの一区で画廊をしている、と言ったが、ともすると彼の生業は画商。しかも、一区といえばハイブランドの本店が軒並み集まる箇所だ。
 高級な紙質のカードをちらりと一瞥すると、ジャン=クロードは淡いシャンパンブルーの瞳を細めて、カンヴァスに向き直った。

「君は、《《彼を知っている》》のかな?」
 ももはそのまなざしの真意を探る。
「知っている、とは?」
「シモン・ロンベールという男について、さ」
 均整のとれた横顔、太陽に透ける羽の先にある瞳は、まっすぐ、イーゼルに立てられたシモンの絵画に向けられている。
 小麦色に染まった丘、青い山、それから、白い木椅子。人影はないのに、どこか、人間の存在を感じさせる。
 ももは男の問いにただ空気を呑んだ。
 男の筋ばった指先が灰がかった空に触れる。
「奴は、かつてある界隈で名の通った画家だった」
 かすかに秋の香ばしさを載せて、風が吹く。彼の上質な外套のすそが、小麦色の海原で揺らいでいる。
「モネの再来、現代印象派の寵児、神の眼を持ち、人々に見えないものを描く男――まあ、いろいろともてはやされたな」
 ももは男の言葉に、手にしたカードを強く握りしめていた。
「そんな方が、どうして」
 ジャン=クロードの並べた美辞麗句がシモンのものだったならば、なるほどたしかに、彼が魔法の手でももの目を奪ったのも頷ける。だが、ももは彼の絵に、彼に惹かれたのが、それゆえではないと心のどこかで思っていた。
 ももの問いに、ジャン=クロードは答えない。カンヴァスを触った指先を眺めて、それを親指とすり合わせると、ただ、眩しさをこらえるように目を細めて、「また来ます」と言った。

 ジャン=クロードが去って、ももはジヴェルニーのクロード・モネ通りまで赴いた。バカンスシーズンも終わり、以前訪ねたときよりか観光客の数は落ち着いているようだった。モネの庭までは行かず、なごやかな空気の漂う往来を進む。それから、土産屋に挟まれた小さなギャラリーに足を踏み入れた。
 夏に訪れたギャラリーとたしかに同じ場所ではあったが、すでに展覧会は別のものに変わっていた。灰色に染まったカンヴァスがないことに少しの寂寥感を感じつつ、ももはギャラリーを見て回った。モネを彷彿させる風景画が何枚も並んでいた。
「あの」
 受付に座っていた女性に声をかける。|ウィ《はい》、とにこやかに答えられて、一瞬たじろぎながら、ももはあることを訊ねた。
「シモン・ロンベールという画家をご存知ですか」
 絵画の買い付けではないとわかり、女はかすかに落胆の色を見せた。
「その画家は知らないけれど、もしよかったら見ていって」そう愛想笑いを貼り付けた彼女は個展主ではなく、ただの雇われのスタッフであった。

 次に、ももはジヴェルニーの奥まで進み、印象派美術館へ向かった。モネをはじめとする偉大な印象派画家たちの絵が展示されている。その道の人間たちには楽園とも言える場所だ。
 ももは展示室には入らず、ミュージアムショップに立ち寄った。モネやシスレー、ジヴェルニーで活躍したアメリカ人画家たちの土産を横目に、ももは書籍棚にかじりつく。印象派の歴史が綴られた本や、後世名を残した画家たちの伝記、あるいは作品集、日本ではなかなか目にかかれないだろう分厚く美しい装丁の本が並んでいた。その中から、「現代印象派批評」という本を手に取った。当然ながらフランス語で綴られたそれに、ももは苦戦する。
 だが、ただ一心に、「Simon Lombers」という名を探した。

「ボンジュール」
 必死でフランス語を流すももに声がかけられる。
 顔を上げると、銀縁眼鏡をかけた白髪のマダムが立っていた。年の頃は自分の両親に近いか、それよりも上だろう、微笑をたたえた顔はとてもやわらかい印象で、まるでルノアールの絵画にでてきそうな雰囲気であった。
「なにかお困りかしら」
 ももは唇を噛み締めて、彼女に打ち明ける。
「ムシュー・ロンベールを、シモン・ロンベールをご存知ですか」
 強ばった声とは対照的に、女性は二、三瞳を瞬かせたあと、ええ、と口元に弧を描いた。
「素晴らしい画家だったわ。見る者の心を激しく揺さぶり、その名を永遠に刻みこむような。彼のカンヴァスに描かれた人間は、それはさぞ美しかったのよ」

 印象派美術館から戻ると、シモンがイーゼルの前に立ち、絵筆を握っていた。
「どこへ行っていた」
 目映いほどの日差しを溜め込んだ空に彼の低音はほどけていく。ももはその前に立ち、カンヴァス越しに男を見据えて答えた。
「印象派美術館に」
「そうか、目当てのものはあったのか」
「……ええ」
 ぐっと奥歯を噛み締めて、それから、ももは目を閉じてひとつ息を吐く。

「ねえ」
 ももの呼びかけに、シモンは一瞥だけを寄越した。
「どうして、あなたは風景画しか描かないの?」
 常と変わらず絵筆を握ったまま、彼はパレットの白をとりカンヴァスに載せていく。塗料が半乾きになったので仕上げを加えているのだろう。
「また、自分を描けとでも言うのか。十万ユーロ積むというなら、描いてやらなくもないぞ」
 にべもない物言いに、ももは動じない。
 なにも返さず、ただ、カンヴァスの向こうに覗く男の顔を見つめていた。グレーがかった癖毛が額の上で小刻みに揺れる。秀でた鼻梁に、深く窪んだ眼窩。
「そうじゃないの」
 まっすぐ絵画に注がれていたまなざしがゆっくりとももを捉える。
「あなたは、とても素晴らしい画家だったのに」
 西へと渡る太陽が、いっそう強く射し込む。ヘーゼル色の瞳には、大きな影がかかっていた。

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