第三章 光と影 11

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「ボンジュール! サ・ヴァ?」
 その翌日、耳に届いた軽快な声に、ももは思わず声を上げて笑った。友人の沙希からであった。
「うん、元気。そっちは?」
 ももは洗面所で髪を|梳《と》かししながら答える。
「こっちがフランス語使ってるのに、日本語で返してくるとは粋じゃあないわね」
「ごめん。今から話そうか」
「もういいわよ」
 まったく、と言いつつも、沙希は電話口で近況を話し出す。いつもの沙希であった。
 ひととおり話し終えると、ももに訊ねた。
「そっちの生活はどう? エンジョイしてる?」
 いかにも沙希らしい含みのない訊ね方だと思った。ももは鏡の中でほつれた髪と格闘しながら、「うん」と答えた。
「エンジョイとは遠いかもしれないけど、でも、楽しいわ」
「ならよかった。あ、クスミティー、買ってくれた?」
「もちろん。カフェ・オ・レ・ボウルも手に入れたよ」
「さっすが、もも!」
 パリのアパルトマンに置き去りにしてある、とっておきの陶器のボウルを思い浮かべて、ももは頬を緩める。

「それで」
 沙希は話題を切った。
「いつこっちに帰ってくるの?」
 一瞬の空白。のちに、ももは髪を梳かすのをやめた。
「ん、ビザとってないし、来月の頭には、帰らなくちゃ、ね」
 居間に飾られたカレンダーを眺めると、いまだに九月のままだった。だが、それはもうとうに過ぎている。耳から携帯を外して確認すると、もう十月も後半に差し掛かっていた。ももがこちらに来てからあとわずかで三ヶ月だ。
「そっか」
 電話口の向こうで、沙希がどこか安堵して言った。
「帰ってきたらどうするとか、決まってるの?」
「ううん。まだ」
 帰ったら――急に夢から覚めたように頭が冷えて、ももはひそかに唇をかむ。
「とにかく、日にちが決まったら教えるね」
「うん、よろしく頼んだ!」
 余計なことは言わずに、そのまま会話を終わらせた。

 またね、という沙希の声を皮切りに、静寂が戻ってくる。
 ふう、と唇からこぼれたのはため息だ。それから、ブラシを握り直して毛先に通していく。
 鏡の中を眺めると、ももは、ある存在に気がついた。
「使う?」
 シモンが洗面所のドア口に立っていたのだ。先に起きた彼は、朝一番の空気を浴びに外へ出ていたのか、無造作に額に落ちた髪がほんのり湿っている。
 こちらを見つめて立ち尽くすシモンに、ももは夢を見るような顔をして微笑んだ。
「どうかした?」
「いや」
 かすかにかぶりを振り、彼は歩み寄ってくる。
「貸して」
 そうして彼女の手からブラシをいとも容易く奪うと、白い首すじに落ちた栗色の髪をひと筋手にとって慎重に梳かし始めた。
 カンヴァスを撫でるときよりも少しだけぎこちないその手さばきに、ももは胸にたしかなこそばゆさを感じながら鏡の中に映る彼の姿をじっと見つめた。
 穏やかな時は、ゆっくりと、だが確実に過ぎていく。

 夢を見ていた。どんな夢だったかは覚えていない。たっぷりとした光の中で、ゆらりゆらり水に浮かんでいるような、心地よい感覚。
 頬を撫ぜる風がやさしく、体を包む水はあたたかく。とても、しあわせな夢だった。
「……ん」
 ある日の昼下がり、どうやら、ももはアトリエで眠っていたらしい。たしか、掃除を終えて、外で制作するシモンのことを眺めていた。だが、それからの記憶がない。冬の香りを纏った風とはうらはらに、日差しは暖かく、睡魔に襲われる陽気だった。
「起きたか」
 どのくらい寝ていたのか。ぼんやりする思考を|擡《もた》げて、飛び込んできた低い声に引き上げられるように、ももはゆっくりと体を起こした。
「ムシュー」
 すぐそばにシモンがいた。イーゼルを立てて、カンヴァス越しにももを窺い見ている。
 いつもなら、向き合うようにイーゼルを持ち出すことはない。ももがあとから彼の目の前に立ちはだかった場合は別として、彼は好きな場所にそれを置くことができる。
「なにを描いているの?」
 ももは作業台に頬杖を突いて、窓から射し込む光に目を細めながらシモンを見つめた。ちょうど壁によってできた影に彼は佇んでいる。小さな小さな塵が陽光に煌めき、精悍な顔立ちにヴェールをかぶせる。どこか神秘的だった。
「さあな」
 そのとき、ももははじめて男の微笑を見た。気難しく結ばれた唇が、やわく弧を描く。まなじりは弛み、頬にひと筋の線が刻まれる。美しいヘーゼルの瞳は、優しくももに注がれていた。
「なあに、気になる」
 いたずら心が生まれて、椅子から身を乗り出す。
「気にするほどのものじゃない」
 前髪を落としてふるい、イーゼルからカンヴァスを外すシモンの顔はもうすでにいつもの仏頂面であった。いそいそとなにかを隠すように立ち上がって、アトリエをあとにする。
 もう、と唇を尖らすももであったが、男が残した微笑は胸の奥に灼きついて離れない。カンヴァスに与えられる視線とも、光から逃れようとするそれともちがう。
 長年連れ添った夫婦のような安心感と、名前しか知らない他人としての心地よさ。それらを抱きしめながら、まろやかな日差しの中で彼女もまた頬を綻ばすのだった。

 だが、変化は突如として訪れる。荘厳な教会の鐘が鳴るように、あるいは、重たい鉛玉が落とされるように。静かな水面に飛沫が上がり、大きな波紋が立つ。

 翌日、ももは小屋の裏手にある倉庫で、一枚の絵を見つけた。
 古びたイーゼルの奥、埃まみれの黒い布に隠された、一枚の絵画を。

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