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「きみの話をしてくれないか」
行為のあと、シモンはももを見つめて言った。
その顔に表情はない。淡々としていて、ほんの少し事後特有の気だるさと|婀娜《あだ》っぽさを孕んでいる。彼女もそうであった。
シーツに吸い込まれるような体の重さと、ふわふわと雲に乗るような幸福感とに包まれ、ももは話した。
日本のさほど大きくはない都市に生まれ、不自由なく育ったこと。自然と文明とに|育《はぐく》まれ、幸せな幼少期を送ったこと。それから、中学、高校、大学まで船に乗って輸送されるように進み、教師になったこと。だが、本当は、引っ込み思案な女の子だったことも。
「どこにでもいるような、女の子だったわ。きらきらしたものが好きで、ビーズや文房具をよく集めてた。|流行《はや》りのものがあると、よくそれにもとびついていた」
自分の右腕を枕がわりにして、|昼中《ひるなか》のまどろみに包まれながら、あなたは? そう訊ねようとしてももは言葉を飲み込んだ。
向き合った彼の瞳が|凪《な》いでいる。
「なにが流行っていたんだ」
彼の大きな手が彼女の頬にかかった髪をそっとよけた。
「そうね、香りのついたペンや消しゴム、それからシールなんかも集めてた。キャラクターだとハムスターのアニメかしら」
猫のような気分を味わいながら、ももはその手の心地よさに目を細める。
記憶の箱を開くときは、いつもそこに苦渋がついて回ったが、今このときだけは違った。くすんだダンボール箱を開けて、思い出の品を手に取り懐かしむ、そんな気楽さがあった。
「そうか」
シモンは彼女の言葉を受け入れる。そこには続きを催促する音色も含まれていた。
「こう見えて、成績は悪くなかったの。いつもテストはクラスの上位だったし、授業も真面目に受ける子どもだった。ただ、声を上げるのがとても苦手で、ほら、いるじゃない? にこにこ机に座って、ひと言も発せず、一心に板書を写している子。それが、わたしだった」
昔から、いわゆる優等生の部類であった。少し周りの空気を読むのが得意で、ちょっぴり要領がいい。だが、比較的目立つわけでもなく、授業中に前の子にちょっかいをかけたり、不必要なおしゃべりをして邪魔をすることもない。その空間に座り、目の前でクラスメイトと教師とのやりとりを静かに笑いながら眺めている子ども。ときおり、ノートの端に落書きをしたり、午後の陽気に船を漕いだりすれど、たいてい通知表の授業態度は二重マルがついていた。
「だが、君は教師だったんだろう。なら、なぜ教師になったんだ?」
いかにもシモンらしい質問だと思った。そうね、微苦笑を浮かべながら、ももは答える。
「なんでだろう、いつのまにかそうなるのが自分の道だって思っていたから。今思うと、不思議かも。でも、引っ込み思案が矯正されたのは中学生のときだった」
中学にあがると、学級委員を任されるようになった。
積極的に名乗り出る子がいるだろうに、伊賀利さんにぴったりだと思う、と担任に|唆《そそのか》されて、夏休み明けのHRで手を挙げた。一年生の二学期だった。
初めはクラスメイトの前に立つことに臆することもあったが、その教員の言葉通り、次第に慣れていった。
そこから、少しずつももの人生は変わっていった。品行方正で、責任感がある。物腰も柔らかく、面倒見もいい。なにをやらせても、文句を言わずそつなくこなす。
「教師とか向いてると思うな」と、気がつけばそんな言葉をかけられるようになっていた。なんの根拠があったのかもわからない。だが、十代の敏感な心を揺さぶるには十分だった。
将来を考えるときにはいつもその言葉がつきまとい、さらには、いつしかその道に進むにふさわしい思考を持つようになっていた。
同時に、人々は要領がいい女の子としてももを扱い、多くの重荷をその背に載せていくようになったのもそのころからだ。彼女自身も、周囲の期待を裏切りたくない一心で、自らその荷をいくつでも背負うようになった。
いつしか、その荷は彼女の|枷《かせ》となり、次第にももは仮面をかぶるようになった。いや、もしかすると、最初から、理想の自分という仮面をかぶっていたのかもしれない。
その期待に応えなくちゃ。迷惑をかけないように、相手を楽しませ、心地よくさせてあげられるように。
《《優しい人を求めるより、優しい人にならなくちゃ》》、と。
「それからは、とにかく必死だった。理想の自分になりたくて、常に口角を上げているように心がけたし、イラッとくることがあっても、五秒数えて我慢するようにしてた」
「まるで軍隊だな」シモンは言う。
そうね、と彼女も笑った。
高校、大学、それから社会人になり、授業中に手をあげることすら億劫な少女はいつのまにかいなくなっていた。それが、人間の成長であり、正しい人生の進み方だと彼女自身は思っていた。
「だからと言って、いやいや教師になったわけじゃないの。わたしの手で変えられるなにかや、救える存在があるんじゃないかって偉大な志もあったし、希望も持ってた。なにより、仕事は辛いこともあったけど、楽しかった」
教員であった数年を鑑みて、脳裏に浮かんでくるのは、教え子たちの声や顔だ。
「先生」とあどけなく呼ぶ声や、「おはよう」「さようなら」と元気よく飛び交う挨拶、大口を開けて笑ったり、一生懸命にノートに向かったり、難しそうに鉛筆を転がしたり。充実した日々だった。
だが、いくら周囲が望むような優しい人間になろうとも、積極的で、責任感の強い立派な女性になろうとも、どれほど仕事に精を出そうとも、結局、彼女は救われなかった。
「あるときまでは、自分の人生はこのまま順風満帆に進んでいくのだと思ってたわ」
会話のただ中に立ち止まり、ぽつり、打ち明けたももの頬をシモンの逞しい手が撫ぜる。
「けれど、あっけなくわたしは船から落ち、海の|藻屑《もくず》となった」
その温もりにどこか泣きそうになりながら、ももは続けた。
「彼とは大学生のときに出会ったの。友人の紹介で、わたしのことをかわいいって言っていたんだって。ラグビーをやっていて、あなたほどじゃないけど、体はがっしりしていた」
いかにも大学生らしい出会いだった。バイトが終わったあと、電車に乗って彼に会いに行った。がやがやと周囲の雑音にまみれた繁華街で、ももは彼と出会った。
シモンはなにも言わず、ただ彼女を見つめている。
「芯が強くて、嫌なことは嫌と突っぱねる性格で、でも明るくて、どことなく憎めない人だった」
自分にない魅力に溢れていたひとだった、とももは思う。毎日外を駆け回っているような生活スタイルから、シャツにナポリタンのソースが飛んでも、まあええか、と笑う豪傑さ。笑うと目元がくしゃくしゃになる人だった。
でも、それ以外はどんな顔をしていただろう。
さほど前ではないというのに、もはや彼の顔の成り立ちを細かに思い出すのは難しい。声も、表情も、まるでアルバムの一枚を眺めるように曖昧で、彼がもはや記憶の人になってしまったことを物語っていた。
ただ、皮肉なことに身体に残った痛みは鮮明だ。
無意識に腹部に手がのびる。そこへ、頬から肩、腕を伝い、シモンの手がそっと重なる。
「付き合って五年を過ぎたころ、明らかに様子がおかしくなった。遊ぶ予定を忘れられたり、連絡が取りづらくなったり。かと思えば、ご機嫌とりにブランド物をプレゼントしたり。原因はすぐにわかった。会社の子と浮気をしてたの」
理由は、自分の出来心だと言った。忙しく、教師というステータスのある自立したももに比べ、近くにいる手ごろな同期入社の高卒の子をとったのだ。
「ショックだった。何回も別れ話はあったけれど、その少し前までは互いの親に挨拶しようなんて言葉がでるくらい、順調に思えていたから」
喉に唐突な閉塞感を感じて、ももは唾を飲み下す。
「別れようと思った。彼を一番にとれなかったわたしも悪かったと思ったし、それなら心機一転スタートしようって」
その矢先に、妊娠がわかった。
シモンのしっとりとした美しい虹彩から視線を落とし、ももは、シーツに寄ったシワの数を数える。
「どうしよう、って思ったのと同時にね、うれしかったの。わたしは子どもを産むんだって。彼の子を産むんだ、《《きっとわたしは愛されるんだ》》って。でも、結局うまくはいかなかった」
ももが気づかなかっただけで、それまでも彼は何人かと関係を結んでいたようだった。結婚を機に改心してくれる望みをかけたが、もはやそれは病気の域に達していたのだろう。『ヤスヨちゃん』という女の子との浮気を機に、すべてが崩れた。
愛する人からの裏切りとは、どんな拷問を与えるよりも容易く、その人格を崩壊させることのできるもっともな手段だ。
ぐっと握り締められた手をシモンが包む。なぜそんなことをするのか、ももにはわかりかねた。だが、彼が共鳴してくれているのだろうと感じた。
「それで、フランスへ?」
「そう」
ももは力なく頷いた。
「ここは、なにもかもが揃った、夢の街だったから」
過ごしてきた時間、関わってきた人々、数々の経験や思い出によって一個人が形成されていくならば。それまで送ってきた人生を含めて、人が人たるならば、伊賀利ももという人間は一体どんな人間なのだろうか。
ももは自問するたび、苦しくなった。嫌いなものを好きと言い、好きなものを好きとは言えず、助けてほしいのに大丈夫、と笑い続けてきた自分に、なにが残っているのか。生きている価値があるのか、あるいは、生きてきた価値があるのか、と。
なにもかもを捨ててしまいたくなった。そして、なにもかもを手放そうとフランスへ来た。
「夢、か」
「そう。はじめての海外旅行が、フランスだったの。航空券と|B&B《ベッド&ブレックファスト》のアパルトマンのシェアルームだけとって、二週間。本当に楽しかった」
凱旋門にシャンゼリゼ通り、エッフェル塔、チュイルリー公園。オペラ座やプランタンにギャラリー・ラファイエット、カルティエ・ラタンやリュクサンブール公園、それから、ルーヴル。なにもかもが輝いていた。そして、すべてが彼女の手の中に残っていた。
あのころの記憶が鮮やかに蘇り、次第に声が華やぐ。
シモンはももの手の甲をさすり、それから頬杖にしていた手を突き直した。
「ヴェルサイユ宮殿やモン・サン=ミッシェルにも行ったわ。ヴェルサイユはチケットの行列がすごくてね」
「ああ、そうだな」
「でも、宮殿を出て少し歩いたところのクレープリーのガレットは最高だったわ。あと、ヴェルサイユ限定の香水があってね、それが大好きだったの」
「バラの香りでもしたか?」
「どうだろう。でも、すごくフランスっぽい上品な香りだった」
「モン・サン=ミッシェルは? オムレツでも食べたか?」
シモンはいじわるく右頬をつりあげる。
「混んでいて諦めたわ。そのかわり、シードルを買って、帰りのバスが来るまで何時間も友達と語り合ったの」
そうだ。ももは忘れていた記憶を古びた箱の中から取り出した。ノルマンディー特産のりんごを発酵させた酒を手に、気高い修道院を見上げながら沙希と過ごしたことを。
目映いほどの光に包まれていた。互いの恋愛事情から、勉学、それから将来のこと。あのころなりに考えていたことを|滔々《とうとう》と話し合った。
「それはいいな」
目を細めたシモンに、ももは笑う。
「でしょう? とても、とても楽しかった」
あの満潮の海に浮かぶ修道院ももう橋がかけられ始めているという。あのころのまま、残っているものなどはたしてあるのだろうか。
雲が空を流れていくように、誰に対しても時は平等に過ぎていく。それは、建物や大地にとっても同じことだ。
「また、行きたい」
「行けばいい」
「そうね。一度くらい、評判のオムレツを味わってみなくちゃ」
言いながら、ももはその歴史ある修道院にシモンとともに立っているのを思い浮かべていた。くたびれるほどの坂道を上がり、その巡礼の風を浴びてから、また下っていく。甘いのか苦いのかよくわからない酒と、数枚の絵はがきを買い、塀を出た先の岩の上に腰掛ける。会話もなくしばらく干潮の海を眺めて、ただそっと寄り添う。
世界は彼女だけのためではなく、他ならぬ彼のためにも存在していた。
言いながらあくびを噛み殺したももに、シモンは、「やめておけ」と苦い顔をしてシーツをかけた。
「夕飯どきになったら声をかける」
「うん」
ああ、今なら自分という人間が、どんな人間か少しわかるような気がする。そんなことを思いながら、ももは頷く。
おねがい、という声は、柔らかな布に吸い込まれていった。

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