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埃っぽいような、湿っぽいような、ふと懐かしくなるような匂いがする。ああ、これはあの渡り廊下だ、ももは思った。
がやがやと騒めく緑色の廊下をゆっくりと進んでいく。胸には大きなスケッチブックと、教科書と筆箱。昔流行った、長方形で両側に文房具を収納できるやつ。
鼻をつく独特な匂いに友人たちがああだこうだと文句を言う中で、少女だけはぎゅうと胸を抱きしめて廊下を進み、階段を上っていく。
とりたてて、図工の授業が好きなわけではなかった。絵のセンスがあったわけでも、工作が得意だったわけでもない。それでも、この不思議な香りを味わうのは、少女にとって、とても特別な時間だった。
場面が、切り替わる。
――伊賀利さん、次の学級委員とかどうかな?
薄紅色のセーターを羽織った女性が、グレーの机をとんとんと指先で叩いている。ぽつんとインク染みのような口元のホクロが印象的だった。
――真面目で、責任感もあるし
ミーン、ミーン、蝉の鳴く声がする。窓の向こうには、ユニフォーム姿の少年たちがボールを追いかけている。
――人前で話すことが苦手?
こっくり頷いた少女に、大丈夫よ、と彼女は笑った。
――すぐに慣れるわ
再び、場面が変わる。
伊賀利さんは、教師とか向いていると思うな。
或る女が言った。
なんのために大学行かせたと思ってるの。
母は怒った。
これで、お父さんもお母さんも安心だわ。
母は笑った。
脳がマドラーかなにかでかき乱されているような、そんな感覚だった。目の前に滔々と広がる光景 、次々と移り変わる背景。いずれも、記憶の海に奥深く眠っていたもの。
浮かび上がる気配はない。そして、地の底へ辿り着く兆しも。
ひと回し、ひと回し、円を描いては、やがて混ざり合っていく。
もも、好きやで。
男が笑う。
あまり、会いたいと思わへんねん。
無機質な声が紡ぐ。
もも以外、おらん。
逞しい胸板が映る。
今度、親御さんに挨拶いかんとな。
不恰好に大きい八重歯が覗く。
明るく、鮮やかだったのが次第に暗く変色していく。黒い絵の具をそこへ滴らせたように、その色彩を失っていく。
本当に、ごめん。
男の顔は絵の具で掠れている。
もも、結婚しよう。
顔から崩れ落ちた目が、鼻が、呑み込まれる。
産まれる子が、女の子やったらええな!
渦のなかから腕が伸びてくる。
彼女? おらんよ、ヤスヨちゃんだけやで。
いくつもの手が、腕を脚を、首を、頭を。
彼女はもがく。いやだ。連れていかないで。だれか、だれか。輪郭のない男の声が、響く。
――ホンマに、ホンマに、悪かった
そして最後には――。
――伊賀利さん、終わりましたよ
ごぽり、唇から泡がこぼれた。
濃い霧のかかっていた森は、今はもうそのヴェールを脱ぎ去っていた。疲労にも似た少しの気だるさが、ももの体を包んでいる。シモンの姿はそこにない。ただ、幽かな温もりは残っていた。
夜の|残滓《ざんし》をはらうように何度か目を瞬くと、脱ぎ散らかしたはずの服がベッドの隅に丁寧に畳まれているのが目に入った。ふ、と眦を緩めて、ももはシーツから這い出てそれに手を伸ばす。夢から覚めた者とは思えぬほど|鷹揚《おうよう》な動きだった。
昨日着ていたニットに触れたところで、その横に見覚えのあるグレーのシャツを見つけると、一寸手を迷わせたものの、そちらを羽織ってベッドから降りた。
冷ややかな温度を足の裏に感じながら、ももはダイニングに顔を出す。
寝室を出てすぐ左手、キッチンに立つ男の姿を見つけると、|ボンジュール《おはよう》、と静かに声をかけた。換気扇の下、煙草をくゆらせていたシモンは、一瞥だけを寄越し、ボンジュールと同じく挨拶を返した。
「コーヒーか、紅茶か」
低い声で訊ねられて、ももは目を細めた。コンロの前の男は、もうすでにいつものよれよれのシャツと絵の具まみれのカーゴパンツを身につけている。ただ、髪は常のとおり寝ぐせをつけたままの無造作さないでたちの上、やかんに落とされた瞳はどこかあどけなさを孕んでいた。
「コーヒーを」
すっかりそれを堪能したあと、ももは慣れた文句を返す。
シモンはやかんを手にし、黒いマグカップにドリップコーヒーをセットした。
「クロワッサンはそっち、それからバターが必要ならそこに」
手元に湯気を立てながら、テーブルとそれからももの真横の冷蔵庫をあごでしゃくり示す。四人がけ用のオーク調のダイニングテーブルには、シモンの煙草缶とジッポ、それから見慣れた紙袋が置かれていた。
「パン・オ・ショコラは?」
ゆっくりとそちらへ歩み寄り、紙袋の口を開けて香ばしい匂いを胸に留めてから訊ねてみる。カタン、湯を注ぐ役目を終えたやかんがコンロに戻された。
「売り切れだった」
うんざりした音色を奏でたシモンに、ももはふっと頬を緩めた。
やがて、出来上がったコーヒーをテーブルに置いて、画家は煙草缶を手にアトリエへと向かった。
丘を一望できる窓からは、たっぷりと光が射し込んでいるのだろう。間仕切りの薄いリネンカーテンに大きな影が映る。ゆらり、ゆらり、水面に風がそよぐように|揺曳《ようえい》しては、沈まぬ船のごとく淡い光の中に存在している。
音はなく、ただ静謐な空気が辺りを包んでいた。気だるさとくすぶった高揚と、それから充足感と、ももはしっとりとした朝を抱きしめて席についた。カップになみなみ注がれたカフェ・アロンジェからは、香ばしい匂いが上がっていた。
それからも、彼女は絶えずアトリエに通った。
次の日も、また次の日も、男は《《それ》》を予期していなかったのだろう。小麦色の丘に上がってきた女の顔を見るや端正な目元は崩れ、一切の動きが止まる様は、ひどく滑稽でならなかった。

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