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さて、画家が描いていたのは、いずれもセーヌ川畔の美しい風景だ。光に揺れる水面、艶やかにしだれる柳——連日、カンヴァスに姿を現わすのはどれも似かよった景色だというのに、色使いや筆使いはまったく違う。まるで、一瞬たりとも同じ光景が目の前に広がりはしないと突きつけてくるようだった。
時間や気候による変化を筆に載せる――モネも同じ手法で何枚もの絵を残していたが、間近でそうした作品群を見るとなかなかの迫力でもあった。目に留まった景色をそのままカンヴァスに描いていく。光だけでなく風までもを捉えるその力。画家という者のすごさを日に日に実感させられる。どうして、目に映る自然をそこまで豊かに、鮮やかに描けるのか。瞳は二つ、だというのに、まるで違うものを見ているような気さえした。そして、何枚ものセーヌの風景を見ているうちに、次第に、どこか違和感を抱くようにもなっていた。
だが、ももがそれを口にすることはなかった。たとえ喉元のむずがゆさを感じたとしても、昼用に買ったカスクートやクロワッサンを頬張っては、もぐもぐとじっくり咀嚼したあとに、それらをぐっと飲み下すにとどまった。
「モネは観に行ったのか」
そこへ通い始めて、四日目のことだった。
昼食をとりながらぼう、と画家を見つめていたももに飛んできたのは、低くくぐもった声だった。
往々にして、フランス語とはもごもごとしているように聞こえるものだが、彼の話し方ももまた多分に漏れずといったところか。
風に聞き逃してしまいそうな声にハッとして、ももは咀嚼していたパン・オ・ショコラをぐっと喉につかえそうになる。少々むせながら、いいえ、と答えた。
「そうか」
男は淡々と返す。ももは口の中をなんとか空にしてその次の言葉を待ち受けたが、彼はそのまま絵筆を握っているだけだった。ジヴェルニーまで来て、モネの庭に訪れていないというのに、かえってももは拍子抜けして、男の顔をまじまじと見返してしまう。
メインの鴨のローストを食べずに、|アントレ《前菜》で満足するな、と、そんなふうに馬鹿にされてもおかしくはなかったはずなのだが、一瞥も寄こさない男にももは妙な感覚に陥った。
出て行けということもなければ、名前を聞いてくることもない。変わらず、パレットから絵の具をすくってはカンヴァスに載せていくその手元には一切の迷いもなく、まるで彼女の言うなにもかもが彼には足ることではないのだろう。一見すれば不躾な態度だ。だが、そのあからさまな自分への無関心さに、かえって言いようのない安堵を覚えていたのもたしかだった。
不思議なひと。なめらかに布地を滑る筆を眺めながら、彼女はサク、ともパリ、とも形容しがたい絶妙な音を小さく立てながら、パンへとかぶりつく。
一体、彼がどういう人間で、どういう画家なのか、なにひとつ手にすることはできなかったが、豊かなバターとカカオの味を舌に転がして、絵の具が形を織り成していくのを待ち侘びることにした。
「ボンジュール、ムシュー」
彼女がパン・オ・ショコラの最後のひと口を食べ終えようとしたとき、静かな楽園に新たな風が吹き込んだ。ももはその風上を追いかけ、丘へと上がる階段を振り返る。
仕立ての良い三つ揃いのスーツに、撫で付けられた金髪と小さな顔を埋め尽くすサングラス。現れたのは、一人の男だった。
「これは失敬、お取り込み中かな?」
画家の後ろで呆然とパンの包み紙を手にするももを見るや、その珍客は小さく口笛を吹いて、俳優さながらに驚いた仕草をしてみせる。手には革張りのいかにも高級そうなアタッシュケースが提げられ、この片田舎の丘にはあまりに不釣り合いな装いだ。
「そんなわけないだろう」
と、間髪入れずに画家は答える。
「そうか。それは残念、とでも言うべきかな?」
「……ふざけるのは止してくれ。それと、あの話は断ると言ったはずだ、ジャン=クロード」
にべもない画家に、ジャン=クロードといかにもフランス人らしい名で呼ばれた客は、サングラスをとって胸元に掛ける。
「まあまあ、そうとは言わずに。今日は手土産もある。少しお茶でもしようじゃないか」
まみえた顔は実に洗練されたつくりで、生粋のフランス貴族のようでもあった。
気さくな言葉とともにひょい、と掲げられたアタッシュケースに、男がカンヴァスから筆を離す。ももはその二人をただ眺めていた。
舌打ちこそなかったものの、渋々といった様子で筆を缶に投げ入れた男に、スーツの麗人はしめたとばかりに満足げな笑みを浮かべる。
「来い」
画材置きと化している簡易椅子にパレットを置くと、画家は腰につけていたタオルで手を拭ってアトリエへと歩きだした。
「ボンジュール・マドモワゼル」丁寧に笑みをたたえて、かの紳士が立ち尽くすもものすぐそばを通り過ぎる。ふわ、とギャラリー・ラファイエットで嗅いだオー・ド・パルファムの香りが掠め、思わずシルエットの整ったスーツの背と草臥れたシャツの——それでいてがっしりとした——背を見比べた。
あまりに対照的な二つの背は、金緑の海原を渡っていく。
容赦なくアトリエのドアを閉められたところで、ももは深く息をついた。
「……モネの庭、行ってみようかしら」
モネといえば、日本でもその作品を目白押しとした展覧会は数年に一度、いや、近年では年に一度といっていいほど開かれる、最も人気の印象派画家の一人だ。
光と風の覇者と称されるとおり、雲がそよぐ空や揺れる水面を描くのを得意とし、初めて美術に触れる者でもその魅力は理解しやすい。
中でも、画家の大作「睡蓮」は、自身の身長をゆうに越えるカンヴァスに——連作ということで、数多カンヴァスのサイズの違いはあるのだが——自宅の庭で水面に美しく咲く花を描いたものであり、その色彩と光の表現力は今なお多くの人々を魅了し続けている。
とはいえ、ももはその「睡蓮」をその目で実際に見たことはなかった。名前を聞けば、「ああモネの」とすぐに思い浮かぶものの、それらはすべて映像や写真で二次的に目にしたものだった。
それでもモネの庭と家を訪れると、写真で見るよりもたしかに美しいその景色に、連日バス乗り場に長蛇の列ができる理由にも頷けた。
緑と色とりどりの花で満ち溢れ、そこかしこにモネの息吹を感じる様は、さすがフランス有数の観光地である。
特に、日本庭園をモチーフに作られた庭は、睡蓮こそ咲いてはいなかったもののどこを切り取ってもすばらしい絵になるようだった。池にかかる太鼓橋や水面に浮かぶ丸い葉、ももたち日本人にとっては馴染み深いそれらを、何万キロも離れた地で目にすることができたのは、どこか郷愁深いものがあった。だが、それまでだった。
ひととおり目ぼしい箇所を巡り終えて、睡蓮の庭からの帰りに、ももは|画廊《ギャラリー》にも寄った。
二十世紀初頭、モネを敬愛するアメリカ人印象派画家たちが数多く滞在したともあって、いくつもの画廊がジヴェルニーの村には点在している。画廊と聞くと、つい銀座や六本木などのアート・ギャラリーのようにいかにも敷居の高い印象を受けるが、比較的、カジュアルな画廊もあるようだった。その中でも、ももはクロード・モネ通りに面した、ガラス張りの小さな画廊を選んだ。
人が十人も入ったらきつくなるであろう広さのそこには、風景画ではなく油彩を殴りつけたような絵画が飾られている。
「すべて、あなたが?」
ぐるりとギャラリーを見回して、エントランスに佇む男性に声をかけると、彼は嬉しそうに笑みを浮かべながら頷いた。
「はい。奥の作品を除いて、すべて自宅のアトリエで描きました。あの二枚は、パリの画塾で」
壁に掛けられた大小異なる十数枚のカンヴァスからは、いずれも描かれた対象物のはっきりとした形を認識することはできない。これが芸術だと言われたら、その是非はわからないが、なんとなく、|芸術《そう》なのだろう、ももは青年の指先を追いかける。
「モネの庭を見てきたばかりだから、なんだか新鮮」
奇抜な色彩はどことなく人気のモダンアートを彷彿させる。囁くように紡ぐももに、彼は後ろ手に手を組みながら笑う。
「よく言われます。でも、ありがたいことに、その言葉こそ僕には褒め言葉なんですよ」
印象派の生きた村で生まれ、彼らの愛した風景とともに育ち、物心ついたころには彼もまたモネを愛していた。だが、他人が羨むような環境で生きていた彼の情熱は、ふしぎなことにモネと同じく印象派というベクトルに重なることはなかった。
「自分の中にある感情や見えているのに見えないなにかをこうして描くのが、楽しくて堪らないんです」と、若き|芸術家《アーティスト》は言った。
ただ絵の具を重ねただけのような絵にも、それぞれの思いが込められていて、意味をなさないようなものが芸術の前では|数多《あまた》の意味を持つのだ。
「|ラ・リュミエール《光》……」
グレーのカンヴァスを前に、ももは呟く。
「どうして、そんなタイトルをって顔してますね」
すみません、タイトルパネルを覗いていたももが謝ると、彼はなんてことのないように、いいえ、と自分の絵を眺めた。
「それでいいんです。それで」
落書きのように、灰色に染まった一枚のカンヴァス。色はところどころ掠れ濃淡がひどくある。彼はこれをどんな風に描いたのだろうか。どんなことを想い、はたまたどんな場所で描いたのだろう。そして、どうして「光」というタイトルをつけたのだろう。
彼にとって、絵を描くことの意義とは。
濃い灰色の中に、一体なにがあるのだろう。ももは、しばらくその絵と対峙していた。
ギャラリーを出ると、近くの店で土産の焼き菓子と平桃を買って、三十分かけてアトリエに戻った。
客人の姿はもうすでになく、光の丘には、カンヴァスに向き合う男の姿、ただひとつだけだった。そして、その唯一の存在も、彼女が帰ってきたことには一瞥もくれず、筆先に神経を集中させていた。
ももはいつものように男のそばへ寄ると、斜め後ろ、男の死角になるだろう位置にすとんと腰を下ろした。もしかすると、知らず知らずのうちに疲れていたのかもしれない、草が肌をくすぐる感覚すら気にもならなかった。彼女はただひたすらに、大きな背を眺めた。
ところどころ絵の具のついたカーゴパンツ、動きに合わせて揺れるフランネルのシャツ。くたびれた襟から伸びる首は、画家のそれにしては太く立派である。
いくら腕を動かしても、表情のかわらぬ精悍な横顔、そして、一ミリたりとも揺らぐことのない堅いまなざし。
ももは男を見つめながら、不意に喉が渇いて、購入した平桃を食べることにした。
もう間もなく旬が終わるだろうその果実にひと口かぶりつくと、じゅわっと果汁が口の中に広がった。適度な固さと酸味、それからその香りの豊かさは、疲れた体にはまさに特効薬だ。
日本の桃とはまたひと味違った味わいが優しくじんわりと沁み渡る。かぶりついたところにまみえる白い果肉は、中心へ近付くにつれて赤く染まっており、それがなんとも食欲をそそって、またひと口、さらにまたひと口、と円盤型の熟れたその実にかぶりつく手が止まらない。
食べ終わったところで、低い声が耳を撫でた。
「どうだった」
フランス語というのは、実に不思議な響きがある。掠れ声に近い円熟した男の声はひどく|婀娜《あだ》っぽく、それだけでひとつの音楽になる。
あの複雑な光を放つ虹彩を一心に目の前のセーヌに注いだままの男に、ももは答えた。
「とても、綺麗でした」
彼女もまた、風景を目に刻む男の姿を映したまま。
「そうか」男は手を止めることなく返した。
西陽が強く照りつけていた。
風に男のグレーの髪がそよぎ、その聡明な額や精悍な頬、それから、熱いまなざしが目映いほどの光を集めている。
大きな体が、逞しい腕が、まったりと金色に染まり、繊細な指先はまるでその筆の|軌跡《きせき》を一本一本愛するようにカンヴァスをなぞっていく。
――ああ、これに優《まさ》る美しさがどころにあろう。
ももははっきりと思った。
どんな絵画よりも、どんな風景よりも、今この瞬間が芸術そのものだと。全身が叫んでいた。呼吸が止まり、激しく鼓動が打つ。この日一番の昂りだった。
この心の揺さぶりがなんなのか、彼女は知らない。
彼の影を浴びながら、女は指についた甘い果汁をぺろりと舌で舐めとった。
