第一章 ジヴェルニーの丘 1

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 天から|燦々《さんさん》と注ぐ光が、アスファルトを照りつけている。

 パリからおよそ七十キロ、列車で揺られること四十五分。国鉄のヴェルノン駅を降りた一人の日本人が、六つ折りの地図片手に、ゆっくりと東へと歩き出した。
 目的地は、印象派の巨匠クロード・モネの愛した庭があるという、ジヴェルニーのこじんまりとした小さな村。
 季節は八月半ば。日本ならば夏真っ盛りというところだが、ノルマンディー地域圏に位置するこの場所はことのほか空気がからりとしていて過ごしやすい。

 この春に大学卒業から数年続けていた仕事を辞め、ギリシャのEU離脱によるユーロ安を機に、期限のないバカンスにフランスへとやって来た《《もも》》は、ガイドブックの美しい睡蓮の写真につられて、郊外へのひとり旅を計画していた。
 美術にはあまり明るくないものの、モネほどの大家画家ならば彼女も知っている。薄明の空に浮かぶ橙の太陽や、パラソルを差した女の絵は、モナリザやゲルニカよりはるかに馴染みやすい。

 そのモネの家までは、駅前からバスで約十五分。ジヴェルニー行きと書かれたシャトルに乗れば、ほぼ一瞬で辿り着くようなものだ。
 しかし、ももはその観光バスを横目にヴェルノンの街を進んでいく。
 パリのサン・ラザール駅でヴェルノン行きの片道切符を買ったときには、たしかに彼女もそのバスに乗る予定だったのだ。だが、バスのまわりにぐるりと集まった人だかりが、彼女をパリとは正反対の片田舎へと追いやったのだ。

 ヴェルノンの街は、すぐさまバス待ちの|喧騒《けんそう》を忘れさせてくれた。
 空高く澄んだ空気は心地よく肺を満たし、ときおりブーランジェリーの香ばしい匂いや、朝どれのフルーツたちのみずみずしい香りを運んできてくれる。
 この道を選んで正解だったかもしれない。この先約何キロにも及ぶ、長い散歩を前に、ももはのんきにもそんなことを思う。
 道中、平桃ひとつと、クロワッサン、それからモノプリでミネラルウォーターを手に入れて、中世の趣きをそこかしこに残した街並みを西へ向けて歩いた。

 モネの庭まで向かうためには、セーヌ川を渡らなければならない。だが、ももは偉大なる政治家の名がつけられた大橋で対岸へと向かう前に、教会に寄った。
 どこかで見たことのあるような尖塔に、いかにも教会らしい歴史感じさせる外観や内装、はたまた七色の光を注ぐステンドグラスは、まさに絵画で見たような世界観であった。
 その教会を出て、少し歩いた小道には道路へ向けて傾いた住宅が並んでいる。シャルル・ペローのおとぎ話にでも出てきそうな古風なたたずまいだ。

 多くの画家たちが訪れたであろうこの街の景色は、ただありふれた日常のワンシーンを映し出しているだけだというのに、たしかにどこか美しい。
 人々はゆったりと歩き、聞こえてくる車のエンジン音や自転車のベルも、ここではいい塩梅に古き良き伝統を守る田舎町の、さりげない景色を彩っていくれている。
 きっと、ここなら毎晩のようにサイレンが聞こえることはないのだろう。ももはそんなことを思いながら、携帯のカメラで何枚か写真を撮った。

 クレマンソー橋を渡り、セーヌ川にかかるしだれ柳を鑑賞したのち、ももはフランス有数の観光地への道を巡り始めた。
 真上を下り始めた太陽が、不健康に近い女の肌を照りつける。ほのかに秋めいた空気を感じるとはいえ、夏はまだそこに存在しているようだ。
 何度も何度も汗を拭いながら、ももは歩く。橋を渡った直後には点在していたスタジアムやサッカーコートも、額に汗がうっすら|滲《にじ》みだしたころにはすっかりなくなって、激しいまでの陽光を遮るものは辺りに見当たらない。視線の先には果てしなく続く道路。気の遠くなりそうな道のりだが、青々とした緑の香りと、そこに微かに感じる土臭さを吸い込んでは、自分には時間があるのだから、と言い聞かせる。
 右手には草原の向こうに悠久なセーヌの流れ、上には雲ひとつない青空。
 途方もない旅のようにも思えたが、白いスニーカーを履いた足は、止まることはなかった。

 ヴゥン、と重い音を鳴らして、自動車がすぐ横を駆け抜けていく。
 一瞬の風が立ち、ふわり、あご下で切り揃えられた栗色の髪が、ジヴェルニーの空にさらわれる。

「もう、すごいスピード」
 ももは必死で髪をかきあつめた。頬や目元にかかった栗色のすだれを、かぶりを振って払っては頼りない指先で耳にかけ直す。
 すると、晴れた視界の先、ももはあるものを見つけた。
「カンヴァス?」
 セーヌとは反対、左手の路肩には小さな丘がある。そこに、イーゼルに立てられた一枚のカンヴァスが見えた。
 ふくらはぎに届くか届かないかという、すすきによく似た植物がイーゼルの足元で青空にそよいでいる。
 印象派の愛した村とあって、戸外制作とやらでもしているのだろうか。ヨーロッパらしい緑と小麦色の混じった丘に、ももは吸い寄せられるがまま、小さな階段を上がっていった。

「きれい」
 思わず、言葉がもれる。数メートルほど上がった高台、後ろにはセーヌ川とその奥にヴェルノンの街が広がっていた。
 悠々と流れるセーヌに、乙女の|艶髪《あでがみ》のごとくかかるしだれ柳。西の空から注ぐまばゆい光。揺れる水面に、きらり、きらり、と宝石がさんざめいている。
 だが、ももの目を奪ったのは、それではなかった。

 小麦色の海に建った、一軒の小屋。光のヴェールをかぶり、その古びた屋根はおろか、開かれた扉や窓、そして部屋の中までもが|金色《こんじき》に染まっている。
 木の椅子や机、それから、小麦色の原っぱに立てられた、一枚の大きなカンヴァス。まろやかな陽光を浴びたそれが優しくも激しく視線を奪う。
 ——まるで、天国がそこに存在しているかのように。

「なにか用か」
 旅の思い出を残すのも忘れてその瞳にただひたすら光を集めていたももは、ハッとして声の聞こえてきたほうを向いた。
 無造作に伸ばされたグレーの髪、スッと通った鼻すじに、口元には無精髭。一人の男が西陽を浴びて、眩しそうに瞳を細めていた。深い|眼嵩《がんか》や高い額が、浅く日に焼けた肌に濃く陰影を刻んでいる。 
 この土地の所有者か。小屋の裏手から出てきただろう男に、ももは慌てて、すみません、と英語で謝った。
「下を歩いていたらカンヴァスが見えて、その、つい、登ってきてしまって」
 必死で言葉を紡ぐ彼女をよそに、男はそばに立ててあるイーゼルへと歩み寄ってくる。
 薄墨のフランネルシャツとカーゴパンツを履いたその姿は、遠目で見るよりもはるかに身長が高い。ももの頭ひとつ分は大きいだろうか、その迫力に驚いて反射的に身構えるももだが、男はただ彼女を一瞥しただけだった。
 それどころか、「それで……」と謝罪を続けようとする彼女の前で、イーゼルの位置を整えて、カーゴパンツの腰にさしていた木製のパレットと筆を手に取るやカンヴァスに向き合った。

 思いがけない行動にももは口を噤む。
 斜め前、一メートルも離れていない場所で、男がまっすぐにセーヌと対峙している。
 淡く金色に染まるその面差しは、自分のものと違って彫刻のように彫りが深い。色素の薄いまつ毛が揺れるたび光のカーテンをまとい、緑とも黄色ともつかない不思議な虹彩を持つ瞳に微かな影を落としている。

 ごくり、気がつけばももは唾を飲み下していた。

 パレットの穴に親指を通し、男は青色の絵の具をそこへ出し、筆に色をとる。迷いのない仕草でそれを真っ白な布地に載せては、ザッ、ザッと無作為な音を立てて色彩を宿していく。
「|すごい《セ・スペール》」
 気がつけば、筆ではなく杖を持っているのではないかと錯覚させるような、荒々しくも繊細なその動きから、目が離せなくなっていた。
 男が空を生み出すのを、青のほかに、なんと次は黄色い絵の具をパレットに出して新たな筆に載せるのを、一心になってももは見つめた。

「モネなら、あと三十分歩けば着くぞ」
 男が手を止めずに言うと、ももは、たどたどしくフランス語を繋げて、「ここで、見ていてもいいですか」と返した。
「見世物じゃない」
「邪魔はしません、お願いします。あなたの絵を見たいんです」
 なぜ、そんなことを口にしているのか。なぜ、こんななにもない、変哲のない丘の上で立ち止まっているのか、ももにも全くわからなかった。
 ただ、《《この一瞬を》》、《《この時を逃してはならない》》、そう思ったのだ。

 やがて、そのやりとりすら面倒になったのか、男は、話しかけないでくれよ、とだけ口にして筆をとり続けた。

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