第三章 光と影 8

8

 二人の生活は続いていた。ただ、寝食をともにするからといって、そこに情事も含まれているかというと、それはまた別の話だった。
 しとしとと雨の降る朝、シモンが目の前の壁を飛び越えてももの領域に現れた日以来、彼らは体を重ねてはいない。
 ひとつのベッドで隣合わせに眠ってはいるが、そこには暗黙の不可侵条約が結ばれていた。かえって、それがこの生活を心地よくする理由でもあったのかもしれないとももは思った。

 ある朝、雨が降った。
「いい匂いね」
 しっとりと降り注ぐ細雨の中、大地から上がるペトリコールにももは大きく息を吸い込む。土と草木と、水、それからほんの少しの油っぽさ。どことなく、心が弾む匂いだ。
 小さいころは雨の匂いと言っていたが、実のところ雨自体に匂いはない。空にその実なにもないのと同じように、土壌や岩石などに蓄積された、植物由来の物質が雨が降ることによって大気中に散りばめられるのだ。ロマンがあるようで、ないような。それでもこの匂いは結局ももにとっては雨の匂いであり、どこか、落ち着いた。
 その大地の恵みを胸に抱き締め、ももは窓の向こうを見遣る。朝まで大粒の滴が空から降りしきっていたためか、辺りには霧がたちこめていた。

「雨が止んだか」
 シモンはカンヴァスを滑らせる手を止めた。
「まだ。でも、さほど強くはないわ」
「そうか」
 制作の途中で彼が筆を置くことは珍しい。どうしたものかと木椅子から立ち上がった男をももは観察する。
 無造作に伸びた髪をふるい、気怠く手でかきあげながら彼は居間へと消えた。だが、五分もたたず、ダークグレーのシングルボタンのコートを身に纏って帰ってきた。
「ついて来るか?」
 銀色に近いヘーゼルの瞳がももを射抜いて、陶然と彼女は頷いていた。

 霧吹きのような小雨の中、シモンがももを連れて行ったのは裏手にある森林だった。枯れ葉の絨毯を踏みしめ、樹々の合間を進んでいく。このまま奥に進めば、ヴェルノンの森に入っていくだろう。
 霧だつ森は雨の匂いに満ちていた。丘で感じていたものよりもはるかに強い。それに、樹々や土の香りがいっそう豊かだった。
 雨が葉を打つ音と、自分たちが枯れ葉や枝を踏み締める音が辺りを占めている。
 なにをしにいくのかはわからない。だが、ももは透明のビニール傘片手に、ズンズン進みゆくシモンの背中を追いかけた。
 しばらくして、少々開けた場所にたどり着くと、シモンは足を緩めた。
「ここは……」
 辺りを見渡して、ももは呟いた。
「なんでもない、ただの森だ」
 出不精の男が出かけるのだから、なにか特別なことでも起こるのではないかと心のどこかで期待していたらしい。シモンのその返答を聞いて、ももはひとつ息をついた。
 大きな切り株があるだけで、そこにはなにもない。もちろん森だからマロニエやブナなどの立派な樹々が並び、空からの光を遮っている。厚手のタイツの上からは茂った草が脚をくすぐり、頭上からはときおり、野鳥のさえずりが落ちてはくるが、彼ら以外の存在ははるか遠い。頬をなぞる空気は冷たく、吐く息はかすかに白かった。

 ももは、この森を知っている気がした。白く燃ゆる、深閑とした森。
 しん、と重い沈黙はむやみやたらに立ち入る者を拒み、迷い込んだ者を深部へと誘う。神獣はここにはいないが、小鹿に扮した精霊が今にも現れそうな雰囲気は醸し出している。神秘的で|静謐《せいひつ》な、唯一無二の森。

 案内人はなにをするわけでもなく、コートのポケットに手を入れて森を見渡していた。
 つゆの滴る葉や、湿った苔、幹の隙間に生えたきのこや揺れる枝葉。精悍な面差しは、絵画に向けられるものとは違えど、自然の営みを前にどこか丸みを帯びているようにも見える。
「いい匂いだろう」
 茫然と森を眺めていたももに、彼は問うた。
「豊かな大地の香りだ。濡れた土に、熟した葉、潤んだ幹には苔が茂り、つゆを載せたくもの糸が楽園へと伝っていく」
 ももは自然と目を閉じていた。まぶたの裏に鮮やかな世界が描き出されていく。
 青々とした、美しく|薫《くゆ》る森。つい数秒前までももが見ていたものと同じはずなのに、シモンの声によって創り出されるそれは、魂が行き着く至上の場所のようにも思える。

 やがて、小さな女の子が現れた。十歳にも満たない、あどけなさの残る少女だ。それはまさに自分だった。
 濃霧に包まれた森の中に立っている。自分よりもはるかに背の高いブナの木を懸命に見上げ、ただ、長いまつ毛を揺らしては、その瞳をきらきらと輝かせている。
「ももちゃん」「伊賀利さん」「伊賀利先生」「もも」彼女を呼ぶ声になにひとつ答えず、心の赴くままに、この瞬間を味わっている。

「美しいな」
 ああ、自分は、今彼と同じ景色を眺めている。同じ風を浴び、同じ匂いを嗅ぎ、同じ温度を感じている。なんて豊かな森なのだろう。
 ももは大きく深呼吸をした。そして、言いようのない感動を胸に抱きしめた。
 与えられた質問に答える必要も、のしかかる期待に無理に応えることや、《《聞き分けのいい伊賀利もも》》として責任を負うこともない。苦しみや悲しみ、孤独や絶望に蓋をして、甲冑を纏う必要もない。なんて、美しい世界だ。

「おい」
 大地を踏みしめる音がして、ももは目を開く。シモンはそれを確認すると、顎をしゃくった。
 ひときわ大きなブナのそばに、茂みがある。彼はぬかるみに足を突っ込むのもいとわずにそこへ近寄ると、おもむろに手を伸ばした。彼女も、そろりと後ろへつく。
 真っ赤な野いちごがあった。
「バライチゴだな」
「バライチゴ?」
「ああ、花がバラに似ているんだ。夏から秋にかけてその実を成熟させる」
 一ユーロ硬貨ほどの丸々とした熟した果実は、見た目はラズベリーに近い。
 シモンはいくつか成ったうちのひとつをもぎって、口に含む。
「おいしい?」
 ももは訊ねるが、シモンが言葉を返すことはない。
 酸っぱいのか甘いのか、表情すら変えずにシモンはふたたびバライチゴに手を伸ばすと、それをもうひとつもぎって、ももの口元へ運んだ。
「食べてみたらいい」
 ひやり、押し当てられた果実に、鼓動が跳ねる。真っ赤に熟れたそれを無骨な指がつまんで、自分の唇に押しつけている。ももは熱い吐息を堪えておそるおそる口を開いた。
 二本の指の間からそっと唇でそれを抜きとって、舌の上に転がす。だが、同時にカサついた男の指の腹まで感じ、ももはきゅっと瞳を閉じた。
 一瞬のことだ。
 だが、永遠にも思えた。
 そんな、背すじが震えるような劣情をひた隠して果実をつぶした。
「ん、甘い」
 想像していた酸味は訪れなかった。世間一般の苺よりも味自体はさっぱりしていて、舌の上で広がるのはほどよい甘酸っぱさだ。頬がなんだか恥ずかしくなる。
「小さいころ、祖父とこの実をよく食べた」
 シモンはももを眺めて言った。
「夏は白い花を探し、秋は赤い実を。多くとれたときなんかは、ジャムにしたこともあった」
 ももは口の中で小さな種を舌でもてあそび、最後まで味わう。
「悪くないだろう」
「うん。何個でも食べられそう」
 シモンは満足げに目を細めて、もう一粒小さないちごを摘むとももの手のひらに載せた。
「こっちへ。この先には泉がある」
 そう言って、彼は整備されていない、いわばけもの道に踏み入る。
 深部へと進むシモンの背は滴を纏い、きらきらしていた。大きくて、がっしりとしていて、頬を当ててみたくなるような背中。
 ももはいちごを口に含み、その背に寄り添うようにあとをついていく。

 雨は上がっていた。

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