4
昨夜から降り出した雨は、朝になっても止むことはなかった。
しとしと、灰色の空からいくつもの雫が降りてくる。石畳を、あるいはブティックのガラス窓やカフェの庇を、容赦なく打ち付けては小さな飛沫が立つ。
ももはヴェルノンに居た。
駅から数分、郵便局を越えたアルビュフェラ通りにあるブーランジェリーの店先、手には焼き立てのパン・オ・ショコラを抱えて、ただ降りしきる雨を眺めていた。
雨は嫌いではない。むしろ――大荷物を抱えているときや、お気に入りの服やヒールの高いパンプスを身につけたときに降る雨、傘を差していても吹き込んでくるほどの豪雨をのぞいてだが――こうして真っ直ぐに落ちて静かに音を奏でる雨を、ももは愛しているようにも思えた。
小さな雫が幾重にも連なり、上等なレースのカーテンとなって包み込んでくれる。
どこか切なくも、やさしく頬を撫でては、ももをあらゆることから隔ててくれる。
一台の車が道路にできた水たまりを弾き、ももはひとりでに呟いた。
「……行っても、大丈夫かしら」
雨音に混じってしまいそうなほど、小さい声だった。
ここまで来ておきながら、ももはこの先へ進みあぐねていた。シモンの元へ行ったとしても、この様子では戸外制作を行うことはないだろう。雨足はさほど強くないが、五分も立っていれば髪は額にはり付くであろうし、足元はぬかるみ油彩どころではない。
だが、それでも彼女が来た道を戻らないのは、《《ここまで来てしまった》》からだった。
冷たくなった手をきつく腹の前で揉み合わせると、かさり、雨の音に混じって、紙が擦れる音がする。
毎日絵を描き続けるシモンのことだ。戸外制作ができなくとも、アトリエで筆をとるかもしれない。彼の描く雨の景色を見てみたいと心はそちらへ引き寄せられるが、同時に、あの足の踏み場が三畳あるかないかの狭く雑多な空間に自分がいては、息苦しくはないだろうかと懸念がよぎる。あれほど後ろから穴が空くほど眺めておきながら、今更そのような心配をするのもおかしな話だが。
どうしようか。ももは白雨の降るヴェルノンの街を眺める。はあ、と吐きだした息は、微かに白い。
静かな世界だった。目の前のカフェの赤い庇だけが、モノクロームの世界を彩っていた。
しとしと、耳を撫でる雨音が、鼻先をなぞる湿った風が、ももをそこへ閉じ込める。
このまま、一人でしばらくヴェルノンに佇むのも悪くないかもしれない。空からかかる薄く美しいレースのカーテンを彼女は眺める。冷たくもしっとりとした空気が体を包み、とても心地がよかった。
悪くない、もう一度心の中でつぶやいて、そう、と瞳を閉じかける。
そこへ、黒い影が向こうから飛び込んできた。
「|失礼《エクスキューゼ・モワ》、マダム」
ももは下ろしかけたまつ毛を大胆に揺らし、その影を目に宿す。
厚手のシャツを傘がわりに頭をすっぽりと覆った男――とくり、心臓が跳ね、アーモンド型の瞳が大きく見開かれる。
「ムシュー、ロンベール」
ブーランジェリーの狭い庇の下、シャツを取り去った男の顔が露わになった。
「君は……」
ギリシア彫刻のような深い|眼窩《がんか》に瞬く銀糸の向こうで、緑褐色の瞳がももの姿を認めてはっきりとたゆたう。
「どうして、こんなところに」
鼻先に滴る雫も拭わずに立ち尽くすシモンにももは訊ねる。
「郵便局に用があった」
シモンはひとつ瞑目したあと、雨粒の積もった上着を外へ向けて大きく振るう。
頬は濡れ、額にはグレーの髪がはり付いていた。
「その、傘は」
雨はジヴェルニーでも昨晩から降り続いていたはずだ。まさか、アトリエから傘もささずに来たのだろうか。ももがたどたどしく言葉をつなげると、「今ごろ、どこのどいつか知らない人間の雨避けになっているだろうな」と、皮肉っぽく息をついた。
それはなんとも残念なことだが、ももは笑いもせずに性急な手つきで鞄の中からタオルハンカチを探し出すと、シモンに差し出す。青空を薄めたような色だった。シモンはじっとそれを見つめたが、ありがとう、と短く礼を述べて受け取った。
「それで、君は?」
シモンは顔を拭いながら訊ねてくる。
近くに感じる男の存在に、手の甲で口元を撫でつけていたももは、思いがけずどきりとした。呼吸が一瞬にして狂いそうになる。しかしなんとかそれを堪え、ちらりとシモンの顔を見上げたあと、そうっと視線を片手に握りしめた紙袋へと逸らした。
「パンを、買いに」
いささかおかしな言い訳だっただろう。ハンカチの隙間から、シモンがその様子を一瞥する。だが、それもほんのひと呼吸のことだ。すぐに、そうか、と言うと、今いちど頭を彼女のハンカチで拭って、髪をかきあげた。
「助かった」
逞しい指先で、丁寧に四つに畳みながらシモンはそれをももへと返す。ももは唇を小さく噛んで受け取った。
雨はまだ降り続いていた。
サア、サア、と、細やかな雫が何重にも複雑に連なっている。美しいカーテンの向こう、鮮やかな赤の庇の下には、黒いベストを着たギャルソンがいかにも眠そうに欠伸を拵えて立っている。
雨音が耳を撫でる。冷たく湿った風が頬をなぞる。微かに、シモンの香りが鼻に掠める。
目頭がくらりとするような、木々の香りのするオー・デ・コロン。それから、テレピン油のにおい。
「アトリエに、行ってもいいですか」
気がつけば、そんな言葉が唇からこぼれた。おもむろに隣の大きな男を仰ぎ、ももは、湿り気を帯びた横顔を見つめる。その愁いの滲んだ色香に、とくり、とくり、心臓がたしかな鼓動を打つのがわかった。ももは、彼の言葉を待つ。
少しして、シモンがこちらへ視線を寄越した。なにも言わず、ただ、自分を見上げる女の顔を彼は眺めている。なにを考えているのか、ももはわかりかねた。だというのに、鼓動はいっそう強まって、小さく、浅く、濡れた吐息がこぼれる。
「パン・オ・ショコラも、あります。それに、傘も」
半ば、混じり合う香りに酔ってしまったかのような心地で、ももは言葉を紡いだ。
あまりにとんちんかんで、おかしな誘い文句を、シモンは無表情のまま受けとめる。だが、ももはそれだけ、必死だった。必死すぎて、そのおかしさに目の奥が熱くなったくらいだ。だが、もはやあとには戻れまい。
うつむきがちに、必死になって、彼女が「だから……」と言葉を続けようとすると、シモンは、「来い」と無精髭の生えた顎をしゃくった。ももは、顔を上げた。
「待って」
雨のカーテンの向こうへ飛び出すシモンを、ももは慌てて追いかける。
濡れるのもいとわずに、やがて鞄から取り出した折りたたみ傘を開いて、背の高いシモンの上へと伸ばすと、大きな手がそれを奪った。
