風光る1

――目の前に広がる鮮やかな青は、だれが見ても同じなのだろうか。

まろやかな陽射しに「H」を象るエンブレムがきらりと光る。

「今日、だれか芸能人いたりしないかな」
「どうだろうね、いたらいいな」

可愛らしい声で話しながら、二人の少女が陽射しの中へ飛び出していく。「はしゃぎ過ぎないようにね」声をかけて、西宮ゆりはその背を見送った。
昼下がりの東京。今となっては、すっかり慣れ親しんだこの街は、相変わらずの人の多さだ。観光地にいると言うのもあるが、平日だというのに海外からの団体観光客や、大学生だろうか仲睦まじげに寄り添うカップル、そのほかにもあの二人のように制服を着た学生や子ども連れ、はたまたスーツ姿のサラリーマンまで、さまざまな姿がある。
見渡せば高層ビルが連なり、有名なモニュメントも空にそびえる。コンクリートジャングルなどと、近現代の街を称したのはだれだったか。さもありなんとばかりの景色に、ゆりは静かに目を細める。
東京湾に面した海沿いの公園には、花壇や街路樹が残されていた。吹く風は、潮の香りがする。ブレザーの背中が完全に見えなくなったことを確認して、百合は行き交う人々の中で立ち止まりながら、トレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出した。

「全生徒チェックポイントを通過しました、と」

ゆりは都内の私立高校で働いている。今日は春の東京探訪ということで、担当している高校一年生の引率として、都内有数の観光地にやってきていた。彼女が勤務する東京|白鳳館《はくほうかん》大学附属高校もその名のとおり都内にあるが、埼玉や千葉、神奈川から通う生徒がいることもあり、この時期には毎年恒例の行事のひとつでもあった。
うららかな陽気の中、迷子になったり、トラブルに巻き込まれていたり、道中なにか起きていないか、行事を円滑に進めるために設けたチェックポイントの一つで、ゆりは学年の全班がやってくるのを待っていた。
つい先ほど、スケジュールどおり最後のグループがやってきたのを確認したため、チェックが完了したことを学年主任に連絡する。
トレンチコートの胸元に学校を記したネームプレートがなければ、もしかするとゆりも観光客や学生の中に紛れていたかもしれない。
ゆりの横をちょうど、女子大生らしき二人が通った。

「そういえば、この間、渋谷で|瀧野《たきの》くん見かけたの! 撮影中だったんだけど、めっちゃ格好よかった」
「え! マジ! めちゃくちゃ羨ましいんだけど」

華を散らしながら、和気あいあいと通り過ぎていく二人の会話に、ゆりはつい微笑んでしまう。
芸能人に会ったら、どうしよう。だれもが抱くであろう淡い期待。かくいうゆりもそのうちの一人で、幼いころは東京に来るたびに思ったものだ。
はたして、あの子たちはだれかに会えるのだろうか。乙女の顔をして東京の街に繰り出して行った教え子の姿を思い浮かべて、ゆりは空をあおぐ。
芸能人なんて、そうそう会えるものではない。いや、もしかしたら、単にゆりが鈍感なだけで、すれ違っているのかもしれない。だが、冷淡にも、それならそれで結局は縁がないってことだとゆりは思う。
見上げた先、たっぷりと光を注ぐ青空は、今まさに少しずつ初夏に向かいつつある。
その|紺碧《こんぺき》の中に、銀色のひときわ大きなビルが見えてゆりは小さく息をついた。そびえ立つ鉄塔にトレードマークのロゴを模したモニュメント、百人中百人がテレビ局と答えられるであろうオフィスビル。
そのビルで働いている人も実際にはたくさんいる。だが、やはりどこかふわふわとした羽毛に包まれた気分になる。
テレビの「向こう」側と、ゆりが今立つ「こちら」側。
それは、決して交わることのない、二つの世界。そうだ、見えている青空は、同じようで、きっと同じではない。それが当たり前で、現実と芸能人の住む世界はまるきり違う、そんなもの。
歳をとるたび、突拍子のない妄想を考えることはなくなり、いつしか現実的になっていた。それが、大人になるようなものだ。ばったり有名人と出会って、人生が交わるなんて、ハリウッド映画の中の世界くらいだ。そう思っていた。

この時までは。

ヴーヴー、と手の中でスマーとフォンが震え、空を眺めるのをやめた。画面に「了解」という端的なメッセージが表示されて、ゆりは自分の世界に戻ってきた。
次の集合場所へ向かう前に、パトロールと称して少しぶらぶらしようかしら。そんな余裕が出てきたのは、教師となって四年目だからかもしれない。スマートフォンをコートのポケットへすべり込ませ、小さく伸びをする。
四月も半ば。桜はもう散ってしまったものの、きっと樹々に宿った緑色は美しいだろう。

「あの」

ゆりはすっかり気を緩めて歩き出そうとしていた。潮騒がかすかに聞こえる並木道、ひとり佇むゆりに、男性が声をかけてきた。
思いがけずふり返ると、黒いキャップを被った男性がそこに立っていた。
はて、なにか用だろうか。ゆりはきょとんと彼を見つめる。
春にはそぐわない、黒いパーカーに黒いスキニーパンツ、おまけに黒いマスクと黒ぶち眼鏡。どんな顔つきをしているかは判別できない。
ゆりがうろんに思っているうちに、男性はマスクの鼻先を少しさわると、うつむきがちに手を差し出してきた。
「これ、落としましたよ」
あっ、と、思いがけず声が出た。それなりに大きな声だった。男性がかすかに後ずさったのを見て、すみません、とゆりは居住まいを正す。
自分の顔写真がついた一枚のカードが、彼の手に握られていた。パステルブルーのパスケースに入った、教員証だった。いつもなら首から下げていたのだけれど、名前も生年月日も、もちろん所属も記されているため、探訪のあいだはポケットにしまい込んでいたのだ。
いつの間に落としたのか。ゆりは申し訳なく眉を下げて、男性に頭を下げる。
「拾ってくださり、ありがとうございます。これ、失くしたら大変なんです」
助かりました、と、ゆりは顔を緩めて笑った。
ふと、男性が身じろいだ。いえ、と小さく彼は言って、ゆりに教員証を渡すと、キャップのつばを深く下げた。そうして、「自分はこれで」と背を向けて去っていった。
この大都会で、わざわざ声をかけてくれるなんて親切だ。小さくなっていく背を見つめながら、ゆりはぽつりとつぶやいた。
「ちょっと怪しい人だったけど」
しかし人を見た目で判断してはいけない。身構えてしまったのは失礼だったなと反省して、ゆりも彼とは反対に歩き出した。

***

 都内某所。一軒のモデルハウスに、大きなレフ板がいくつも持ち出されていた。爽やかな白塗りの壁に、大きな掃き出し窓。リネンのカーテンが風にはためいている。
ゆったりとしたアイランドキッチンと、メープル材のテーブルセットの隣には革張りのソファー。そこに、リラックスしたように一人の青年が座っていた。
「|成瀬《なるせ》くん、いいねその表情」
カシャ、カシャ、と軽やかな音が響く。あらゆる角度から、まるで一秒たりとも逃しはしないという勢いで、カメラマンが彼の周りをせわしなく動いている。
ラベンダー色のセットアップスーツという一見奇抜な格好は、その色合いから女性的な印象を与えるが、彼の精悍な印象までは奪わせない。その端正な顔に浮かぶ微笑はあどけないものから哀愁のこもったものまで、カメラの動きを先読みするように表情が移り変わる。
「本当、彼ってカメラの前だと人が変わるわね」
セットの後ろで、折目正しいグレーのパンツスーツの女性が、感嘆の息をつく。
レンズに捉えられた彼、|成瀬《なるせ》|眞人《まさと》は、芸能事務所「ダイヤモンドプロダクション」に所属している俳優だ。映画からドラマ、CMとどこにも引っ張りだこの彼は、今年、日本で最も忙しいと名高い。
今日はそんな、今をときめく男の雑誌撮影の日。この四月から始まった月曜ドラマ「リーガルアソシエーション」のプロモーションを兼ねた、特別インタビューのためだった。
「十代のころから見てるけど、この成長ぶりには何度見ても感動しちゃう」
「編集長のオキニですもんね」
同じくスーツに身を包んだ男性が、女性にコーヒーを差しだす。
「カメラを前に、顔を変えるのはプロの仕事。でも、何人もそういう人を見てきたけど、成瀬くんは格別。仮面を挿げ替えるでもなく、その人生までをも塗り替えるように変化する」
「ちまたじゃ、憑依型俳優なんて言われてますからね」
「そう、普段は大型犬みたいでかわいらしいのに」
シャッターを切る小気味よい音が四半刻鳴り続けて、やがて、「オッケーです」という声が響いた。
「おつかれさま、成瀬くん」
ソファーから立ち上がって、カメラマンやメイク、スタイリストなどのスタッフたちに律儀に頭を下げている眞人のもとに、太陽出版雑誌部の編集長である|大林《おおばやし》|明子《あきこ》が歩み寄る。
「大林さん、ご無沙汰してます」
明子を見つけるや、ぺこり——いや、ぺこんというのに近いだろうか、ひときわ深くお辞儀をして眞人は白い歯をのぞかせた。
「あいかわらずね」
「あいかわらずって、なんですか」
刈りあげた横髪を掻いて眞人はくしゃりと笑う。先ほど、カメラの前でアンニュイな微笑をたたえていた青年とは思えない鷹揚さで、「そのギャップに何人の女子がやられてるか」と明子が言えば、やめてくださいよ、と屈託なく破顔する。
謙虚さは美徳と言うけれど、ここまでくるともはや毒でもあるかもしれない。ひらひら手を振った眞人に、明子は眼鏡の奥で呆れた目を浮かべた。
「今回も、いい写真がたくさんよ。まったく、成瀬くんには頭が上がらないわ」
「いやいや、それは僕のほうですから。いつも気楽にやらせてもらえて、ホント、感謝してます」
そこまで話したところで、明子はどうぞと着座を促した。すみません、眞人がまた頭を下げてメープル調のシンプルなイスに座る。すかさずスタッフが飛んできて、眞人の前にミネラルウォーターのボトルが置かれた。
「サイダーのほうがよかった?」
「そうですね、できるならそっちがよかったな。でも、今事務所からNG出てるんですよ」
いたずらっ子の顔でボトルを開ける眞人に、明子は微笑む。
「このドラマが終わったら、今度は映画の試写会、スペシャルドラマに昼の連続ドラマ、来年まで気が抜けないものね」
「ありがたいことに。まだまだ忙しくなりそうです」
「そのときはまたよろしくね。十ページでも百ページでも割くから」
「百ページはさすがに勘弁してほしいですかね」
情けなく眉を下げて、ボトルを手の中でもてあそぶ姿にどこか懐かしさを覚える。それはまだ明子がただの編集者で、チーフとして仕事を再出発させたころのこと。まったく、そのクセは治らないのだと小さく息をつく。
あまたの娯楽にあふれた時代、いつまで彼は走り続けるのか。
「次、準備OKです」忙しないセット移動が済んで、声がかかる。
明子はうなずいて、イスから立ち上がった。
「すみません、大林さん。今日は忙しいのにわざわざありがとうございました」
「それはこっちのセリフ。インタビュー、根掘り葉掘り答えてちょうだいね」
困ったな、こめかみを掻いて、眞人は立ち上がった。

***

 社会人になって数年、順風満帆な生活を送っている。憧れの仕事に日夜奮闘していることはもちろん、同僚にも友人にも恵まれ、充実した日々だ。
教師としても、先の三月に高校三年生を送り出し、まだまだ若手ではあるが新米ではなくなって、更なるステージに一歩踏み出せたところ。
たしかに、教師という仕事は激務で、それに伴う責任も大きく、直面する問題も一筋縄ではいかないものばかり。だが、そのぶんやりがいがある。ゆりにとっては毎日が新鮮だった。
「|西宮《にしみや》先生、日誌持ってきました」
東京探訪から数日。帰りのホームルームが終わり、職員室でホッと一息ついていたところに、可愛らしい声が飛んできた。
ドア口を見れば、一人の女子生徒が立っている。黒いピンで留められた前髪に、きっちりとまとめられたポニーテール。担当クラスの生徒だ。
どうぞ、とゆりが促すと、「失礼します」と控えめな声が続いた。
「|柏木《かしわぎ》さん、ありがとう。今日は一日どうだった?」
日誌を受け取りながら訊ねたゆりに、「楽しかったです」と|柏木《かしわぎ》|萌々乃《ももの》がはにかんだ。
まだ入学して一か月も経っていないからか、どことなくぎこちないのがかえって初々しい。規定の紺ブレザーに赤リボンと、それから膝頭の隠れるチェックスカート。制服を折り目正しく着こなしているところも「ザ・新一年生」感が表れている。
それならよかった、と日誌の内容を確認して、「うん、バッチリ」ゆりが優しく微笑むと、萌々乃はホッと胸を撫で下ろした。
「今日はなにか面白いことはあった?」
いささか子どもじみているかもしれないが、これがゆりの心がけていることだった。毎日が緊張続きの彼らに、少しでも寄り添い学校生活のサポートをする。高校生になったとはいえ、まだ中学校を卒業し新しい生活が始まったばかり。ゆりとて依然手探りで生徒たちと接している中で、彼らにできることのひとつだ。
「昼休みに、クラスの女子で好きな芸能人について語り合いました」
えへへ、と頬を掻きながらうれしそうに萌々乃は笑う。
「なにそれ、楽しそう。ちなみに、今、高校生の中でだれが人気なの?」
「うーん、アイドルとか韓流スターとかいろいろ意見は分かれるんですけど……|横山賢哉《よこやまけんや》くんとか、格好いいってみんな言ってました」
「横山くんかぁ」
最近、よくバラエティ番組でも見かける若手俳優で、くりっとした丸い目に、柔らかそうな髪、へらっと無邪気に笑う可愛さとは別に、口もとにあるホクロがセクシーな若手俳優だ。
ふむ、と青年を思い浮かべて納得する。たしかに、女子高生に人気がありそうだ。
「新しく映画やるよね? たしか、アクション系の。時代ものだったかな」
「そうなんです!」
突如ぐいと迫ってきた萌々乃にゆりは苦笑する。。
「もしや、柏木さんも好きなの?」
「ちがうんですけど」
すごい勢いだ。ちがうのか、と内心突っ込みつつ、手にしていたままの日誌を机上に置いた。
「そこに私の好きな俳優が出るんです!」と、萌々乃は手を握ってキャアとはしゃぐ。
「へえ、だれ?」
「|田川《たがわ》|陵亮《りょうすけ》って言うんですけど」
いよいよ胸のあたりで両手を合わせて、くう、となにかをこらえる様はまさに「推し」に祈りを捧げているに違いない。頬を上気させて、ともすると恋する乙女みたいだけれど、もっと激しいかもしれない。……と、思ったのはここだけの話だ。
「あ、タガリョって子?」
萌々乃は目をらんらんと輝かせた。
「え、先生、知ってるんですか!」
「うん、まあ、知ってるよ」
どうどう、うら若き猪を鎮めて、萌々乃は頬に手を当ててうっとりとした顔をした。
「王子様みたいに整った顔をしている子でしょう? 初めてみたとき、びっくりしたもの」
職業柄、若い子、特に生徒たちの好みはよく耳に入る。すすんで世間の流行をリサーチすることもあるし、ある意味ミーハーなのかもしれない。どのアイドルがはやっているのか、今話題の漫画はなにか。教師はそうして、常に授業のアクセントとなるネタを探しているのだ。
タガリョと呼ばれる俳優を褒めたのが嬉しかったのか、萌々乃は、「そうなんですぅ!」と黄色い声を上げた。
「めちゃくちゃきれいな顔してて、でもなんか意地悪そうで、ていうか意地悪されたい! みたいな感じなんですけど……先生は? 好きな芸能人!」
あ、これはガチなやつだな、と頭に教え子の推しをインプットする。
「私? 私はね」
打ち明けようとしたところで、「おっ」と、横槍が投げ入れられた。
「西宮先生にそれを訊くと長くなるぞ」
「本郷先生、そんなこと言わないでくださいよ」
黒地に紺ラインの入ったジャージ姿、大胆に口を開けて笑いながらゆりの前の席についたのは、同僚の|本郷《ほんごう》|昴《すばる》だった。萌々乃が慌ててお辞儀をした。
なんて失礼な、と反抗のポーズを見せるが、昴は楽しげに笑っている。
「しかも、これ言うとみんなにキョトンとされるんですよね」
「まあ、海外俳優で、しかもアラフィフのおっさんには高校生は興味ないだろうからなあ」
「おっさんって言わないでください」
かれこれ、数年の仲だ。もちろん昴はゆりの「好み」を知っていた。
ちょんと唇を尖らせたゆりに、「ええ、逆に気になります」と萌々乃が食いつく。
「今度の授業でのお楽しみね」
と、ゆりは優しく微笑んだ。

好きな芸能人はもちろんいる。その人物が出演している映画はたいてい観ているし、好きな理由を聞かれればちゃんと答えることができる。だが、萌々乃のように恋する乙女の顔でその人のことを話せるわけではない。どちらかというと、ジョッキを傾けながら、「いや、本当格好いいよね」などとしみじみ呟く感じに近い。それを言葉にしたとき、もっとキャピキャピしなよ、と昴はこれまたジョッキを手にしながら笑っていた。
「また四月ってことは、新しいドラマも始まりましたね」
担任の「推し」を知りたいがため最後までねばる萌々乃をなんとか帰したあと、ゆりは日誌を開いて昴に話しかけた。
昴とはゆりが新卒で着任した当初から同じ学年を組んでおり、今年で四年目の付き合いとなる。彼のほうが先輩教師ではあるが、歳も近いとあって気の置けない仲だった。
ちなみに、萌々乃はちゃっかり去り際に、「今期、昼の連ドラ、タガリョ出てるんで観てください!」と残していった。
「ドラマかあ」
昴がしみじみつぶやく。彼も手元の書類仕事を進めているようだった。
「西宮先生はなにか見ていらっしゃいますか?」
「いえ、録画だけはしているんですけど、なかなか観る時間がなくて。溜まっていくばかりなんですよね」
こと、新年度の始まった四月は忙しい。イレギュラーな行事が多いことはもちろん、気の遠くなるような授業準備が教員たちを追い詰めていた。
春休み、せっかく前クールのドラマを消化したばかりだと言うのに、すでに溜まりつつあるレコーダーの中身を思い出して、すっかり気が遠くなる。
読みたい本も、観たい映画もある。だというのに、なんだかんだと時間はあっという間に過ぎてしまう。気がついたときにはなにもかも山積みだ。
ギィと音を立ててデスクチェアにもれた昴は、わかる、と苦笑した。
「でも、今期なら、水9おすすめだよ」
水9、ゆりはおもむろに顔を上げた。並べた教科書の向こう、真向かいに座る昴と目が合う。コーヒー片手に彼はしたり顔で片眉を跳ねた。
「なんでしたっけ、法律系でしたっけ」
「そうそう。『リーガルアソシエーション』ってやつ。ストーリーもおもしろいんだけど、なにより|相原《あいはら》|翼《つばさ》ちゃんが出てて可愛いんだよ」
「先生、翼ちゃん好きですもんね」
「いやあ、あの目元がいいよね」
気だるげな、アンニュイって言うの? なんか可愛いよね、うんぬん。あたかも自分の彼女の惚気のような昴の話を聞きながら、ゆりは卓上カレンダーに手を伸ばした。
水曜九時、つまり明日。
「主演、男の人でしたよね?」
「そ、|成瀬《なるせ》|眞人《まさと》っていうんだけど、ドラマ版『ブラック・リング』の主役だった人」
ブラック・リングは数年前に大流行した漫画だ。望みがなんでも叶うという指環を手にした少年が、殺人という道ならぬ道に目覚めてしまう衝撃的な内容で、実写映画化のみならず連続ドラマまで放送され、一種の社会的現象となった。
「成瀬、眞人……」
ゆりは小さくその名前を口内で転がす。
「|憑依《ひょうい》型俳優なんてよく言われてる。なかなかすごい演技力だと思うよ」
なんとも仰々しいキャッチコピーだが、演技派俳優によく与えられるほまれ高い名だ。たしか、犬っぽい笑顔が可愛らしい人だったような。ふとバラエティー番組で見かけた彼の顔を思い浮かべる。
あんな人が、作品内で殺人鬼になったり法律科になったりするのだ。憑依型という言葉は、たしかに的を射ているのだろうけど、「なんだかいかめしいですね」やっぱりそんな気がして苦笑する。
(木曜日の授業数は、三コマか)
多い日は五コマにも及ぶことがあるのだから、三コマというのは比較的少ないほうだ。土日を挟んだおかげで今週分の授業準備は終わっている。あとは今日明日の進度に合わせて微調整を加えるだけ。放課後、会議の予定があるわけでもなく、このままの計画であれば翌日のための授業準備もスムーズに終わるだろう。なにか生徒指導などのトラブルがないかぎり、十分ドラマの時間に間に合うはずだ。
いつの間にか勝手に算段している自分がいて、ゆりは呆れるとともにどこか楽しみな気持ちであった。
ちらと時計を盗み見ると、「そんなにオススメなら、観てみないとですね」と言ってボールペンを握った。

***

「眞人、明日は朝六時にそっち迎えに行くから」
髪の毛を小綺麗に撫でつけて、細縁の眼鏡をかけた男がフロントミラー越しに後部座席を見遣る。
事務所から出た格好のまま、分厚いレンズ越しに窓の向こうを見ていた。静かに流れる街並みは、まるでスクリーンを見ているかのようだった。消えては現れるその情景を見るともなしに眺めていた成瀬眞人は、マネージャーである|吾妻《あづま》の視線に目で答えると、はい、と喉から息を吐き出した。
頬杖をついた肘から、かすかにガラスの冷たさを感じる。春になったとはいえ、日が暮れれば風が冷たくなる。昼間の暖かさを鎮めるように、きっと夜気はひやりとしている。
スモークのかかった窓の向こう、花見の時期は過ぎ浮かれてそぞろ歩く人々の姿もない。平日の、宵の東京。流れゆく景色の中、変わったものはとくにない。いつもの風景、いつもの街。喧騒から逃れ静けさを抱き込んだ夜が、眞人の目に飛び込んでは消えていく。
明日も撮影だなと眞人はぼんやりと考える。そんなことを言えば、「なに言ってんだ、今さら」と吾妻は返すだろう。
あくびが出そうになって噛み殺す。そうしてすぐに車の中だから隠さなければよかったと後悔する。中途半端に誤魔化された眠気がかえって気持ち悪い。
この胸の、全身のもやを持て余す日々にも、慣れてしまった。なんて贅沢なと周りの人間は言うだろう。
月曜夜九時といういわばゴールデンタイムの主演ドラマに抜擢され、その他にも主演映画にCM、海外ブランドの告知アンバサダー、数えきれないほどの仕事をすでに抱えている。さらには半年に及ぶ連続ドラマの主演、仕事を始めたころの自分からすれば、考えられないほどの多忙さだった。
まさに、俳優としての旬。バラエティー番組のMCで散々、最も忙しい俳優の一人と称されたのも記憶に新しい。親は毎日あんたの姿を見るよと言っていた。毎日のように、「成瀬眞人」として生きていた。うんざりしたように言いながら、嬉しそうな顔をする母と父の、その様子を見て、ようやく親孝行ができたかと得意な気持ちにもなった。
けれど、それだけ。乾きを覚えてしまった身体はどこまでも貪欲だ。
私用のスマホに通知が入る。高校時代の友人からの連絡だ。見たよ、この間の写真集、そんなメッセージにスタンプを返す。
いつもありがたいことだ。画面を伏せて、眞人は再び外へ視線を転じる。
「十月から、『あすはまだ見ぬ』の撮影だって、聞いたよな」
「スケジュール、更新してあったね。台本は、まあまだだよな」
「さすがにな。上がったらすぐ回してもらうよう伝えとく」
ネオンが灯り始めた街には、人びとが行き交っている。制服姿の学生に、家へ急ぐサラリーマン、それから、ショップバッグをぶら下げた女性や疲れ顔の男性。そして、仲睦まじげに寄り添うカップル。
「平和だな」
まるきり、違う世界みたいだ。肘先の冷感が伝播し胸のあたりから指先に向けて熱が失われていく気がする。今ここで飛び出したらどうなるのだろう。一瞬にして、現実が非現実になるのか。
ふと思い出したのは、春の光の中で屈託なく笑う女の人の姿だった。
特別なことがあったわけではない。ただなんとなく、思い出しただけ。
「聞いてるか」と吾妻が言う。
「聞いてるって。本当、五年前からすると、これだけ忙しくてありがたいことだ」
「五年前もなかなか忙しかったぞ」
「そうだっけ?」
「ああ。『ブラック・リング』のときだろ、ちょうど」
「そっか、そんなに前か」
気がつけば、三十歳。俳優として一種のターニングポイントを迎えている。その矢先の、主演抜擢続き。雑誌のインタビューの回数も増え、さらにはページ数も倍増している。ここからが勝負どころだ。
恵まれている、と人は言うだろう。
そうだな、眞人は頬杖を突くのをやめた。大きく息を吸い込み、座席に背を預けて目を瞑った。
「気をつけろよ」吾妻が言った。
なにを、と訊かなくとも、それが示す意味を知っていた。「当たり前」とだけ返事をして、眞人は意識を遠く深くに沈めていく。
車は東京の街を進み、眞人の自宅へと向かっていた。

***

 水曜日というのは、どこか心が軽い。社会人にとって一週間とは長いもので、息継ぎなしに張り詰めていて呼吸をホッと吐き出せるのが水曜日だ。
教員にとってもそれは変わらず、月、火と走り抜けて、ちょっとひと息入れて後半戦をまた駆け抜ける。
私立学校では土曜授業を行なっている学校がほとんどのため研究日として平日に休みを設けるのだが、その日を水曜に設定している教員も多かった。ゆりはそれが金曜日なのだけれど、週の中日、時間割も五時間のこの日はやはり気安かった。
あっという間にやってきたその日に、ゆりの気持ちもどこか浮かれていた。平和にその日の授業を終え、放課後は生徒やトラブルに捕まることもなくとにかく仕事を進める。翌日の授業準備をきっちり終えたあと、「お先に失礼します」と職員室をあとにする足取りは軽かった。
こんなに心が弾んでいる帰り道は、久しぶりだった。
職場から自宅の最寄駅まではおよそ三十分。電車に乗るころには疲労が肩にのしかかってくるのだが、昴から教えてもらった「リーガルアソシエーション」のおさらいをしているうちにあっという間に最寄駅まで到着していた。冷蔵庫に作り置きのスープがあったなとスーパーやコンビニに立ち寄ることなく、マンションまでもまっすぐ急ぎ足で帰ってきたくらいだった。
やるべき仕事もすべて終えた身体は、清々しいくらいに軽い。花香りのする風が心地よい夜だ。
最寄駅から繁華街を抜け住宅地を十分ほど進めば、街路樹の先に十階建てのマンションがある。築五年、完全オートロック・プライバシーの配慮・防犯も万全。ここだけの話、都内でこの条件を揃えるとなればそこそこの家賃になってしまうのだが、勤め先の福利厚生に助けられつつゆりはこのお城を手に入れた。
洒落た横文字の銘板を横目に、エントランスへの階段を数段駆け上がる。入り口のオードロックを解除し、それから意気揚々と郵便受けを確認して自宅へ向かう。
「ない……」
しかし、エレベーターを上がりドアの前までやってきて、肝心の鍵が紛失していることに気がついたのだった。
エントランスから居住部までは大した距離ではないというのに、鞄の中身をもう一度確認して、ガウントレンチやジャケット、アンクルパンツのポケットを上から叩いたり中を探ったり。けれどやっぱり鍵はない。
しっかりしているね、と小学生時代からよく言われていたが、ゆりをよく知る人こそ、「うっかり者」と称していたのを今ここで思い出した。まったくだ、とゆりはすっかり肩を落とした。
職業こそ堅い職種とはいえ、実際には完璧な教師には程遠い。いつもまじめの皮を被っているだけだ。せっかく、いい夜だと確信し始めていたところだったのに。
確実にマンションの中で使ったとわかるだけ救いだった。ゆりは決心し、今度は重い足取りでエントランスホールまで下りていった。
「なんて、ばかなの」
来た道を辿り、クリスタルのキーホルダー付きの鍵が落ちていないか床を探す。廊下の絨毯の上にもエレベーターの中にもどこにもない。きょろきょろと辺りを見渡しながら歩く人間はどれだけ不審だっただろう。
あとは守衛室に行って、落とし物がなかったか確認するしかない、というところまできて、ゆりは思わず膝を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「下手したら、管理会社に連絡しないとかな。寝れるの何時だろう」
マスターキーって守衛室にあるんだっけ、うずくまっている場合ではないのだけれど、自分の情けなさに打ちひしがれた。
友人がいたら、ちょっと待って、一旦ストップ、と手のひらを向けていただろう。一人だから、ついため息がエントランスに響いた。
「大丈夫、ですか」
そんなとき、控えめに背後から声がかかった。
構えていなかったものだから、(だれ?)ゆりはあからさまに大きく肩を跳ねた。それから羞恥心を思い出して、前髪をかき集めた。
「すみません、あの、探し物をしていて。変な者ではないので、どうぞ、お先に」
むしろこの返答が変質者じゃないかとすぐに気がついて、「あ、617の西宮です、住人です」とゆりは矢継ぎ早に告げた。
だれが、どのようにこちらをうかがっているのか、見る勇気はなかったがいつまでも膝を抱えているわけにはいかないからと必死に前髪を押しつけながら立ち上がった。すみません、としきりに頭を下げた視界の隅に、黒と白のスニーカーが映る。
ああ、と、おそらく男性が言った。
「探しものって、これですか」
シャラン、と鈴の音が鳴る。骨ばった指先に、クリスタルのキーホルダーがぶら下がる。
いつぞや、旅行先で買ったご当地キャラクターがきらきら光る。
(あっ)
思わず、大きく開いた口を手のひらで押さえた。
「それです、探してたんです!」
舞い上がる気持ちを抑えきれずに、ゆりはどうしよう、よかった、と泣きそうになりながら歓喜の声をあげる。
「救世主です、ほんとう、どこに落としたかわからなくて、野宿しなくちゃいけないかと覚悟していたんです」
実際はそんな覚悟をしていなかったが、安堵して気が大きくなっていたのだろう。そうしたとき、さりげなく事実を盛るから、友人にはよく呆れられていた。それはともかく、水曜日の救世主だ、と浮かれて呟いたゆりに、「ぷっ」と吹き出すのが聞こえた。
「……あ」
気がついたときには手遅れだ。
体を折り曲げて笑う男性の柔らかな頭髪を見つめて、全身から火が噴き出そうだった。
「すみません、忘れてください」
泣きたいやら、逃げ出したいやら。今度こそ顔を手で覆って、天をあおぐ。
「いえ、月曜日の救世主……。そっか、救世主か」
腹を抱えていた男性が上体を起こして、黒縁メガネの下でまなじりを拭う。
「身分証も鍵も、もう落とさないでくださいね」
指のあいだから彼を見て、はっとする。
見上げるほどの長身、しなやかな身体つき。キャップは被っていないけれど、メガネとマスク。
「怪しい人……って、すみません、その節はお世話になりました」
男性はついに声をあげて笑った。
「うん、怪しい人、です」
マスクに指を引っ掛け、「こっちこそ、こんな格好で声かけてすみません」顎下まで下げた。
「そんなこと、あの、先日も今日も本当に助かりました。どうお礼をしたらいいか」
鍵を受け取り、ゆりは平身低頭、感謝を述べる。
「なくならなくてよかったですよ。どちらも大切なものだし」
「そうですね。先日のカードも、あれがないと、印刷機もパソコンも使えなくて」
そうなると、その日の準備ができず、授業が失敗する可能性がある。発行にも時間がかかるし、事務から小言もプレゼントされる。
大変なんですよ、と息をついたところで、余計なこと話しすぎたかと、ゆりはまたしても謝罪して彼の顔をうかがった。
「ええと、お名前をお聞きしても?」
同じ住民同士、顔を合わせることもあるかもしれないから、と、思ったが、一瞬顔をこわばらせた彼にあっと思い、おどけるように表情を崩した。
「ごめんなさい、出会ったばかりなのに、慣れなれしかったですよね」
「いえ、普段こういう場面が少ないというか。……成瀬です」
成瀬さん、と口の中で転がす。
「ありがとうございます」
不思議な気分だった。唇からじんわり熱が広がって、全身にほどけていく、そんなあたたかな心地だった。
彼が拾ってくれたクリスタルのキーホルダーごと、ゆりはぎゅっとそれを握りしめた。
彼とはエントランスホールで別れ、ゆりはようやく自宅へ戻る。
とんだトラブルを起こしてしまったが、長い一日の終わりだ。鍵を開けて室内に入ったから、もう気を張ることも必要なかった。すっかり肩の荷を下ろしていつものようにすいすいとフローリングを渡っていく。脱いだコートをコート掛けに掛け、カバンはサッと汚れを拭ってソファーの横に。先に一杯と行きたくなるところだが座ってしまったが最後動けなくなるから、そのまま洗面所へ直行する。そうして帰宅後の身支度を終え入浴までを済ませたあと、作り置いていた野菜スープを温めているところでふと思い出した。
(そうだ、リーガルアソシエーション)
見てみます、と昴に言った手前、忘れるわけにもいかない。なにより、その一時間を楽しみに週の始まりを乗り越えたのだから、ご褒美なくして水曜を終わらせるわけにはいかないのだ。
時計を見れば頃合いの時間で、(よかった、間に合った)と胸を撫で下ろす。一日の汚れを落とした身体は、疲れはあるけれど倒れ込むほどでもない。最後の最後でトラブルもあったけれど、事が大きくなることもなく無事解決したのだから終わりよければすべてよし、だ。平日だけど、疲れたしいいよね、と缶チューハイも忘れずに、ゆりはいそいそテレビをつけた。
スープを火にかけているためリモコン片手にキッチンへ戻り、行儀悪くも立ったままプルを上げる。シュワっと湧き立つ泡に口をつければ、爽やかなレモンの風味が鼻の奥に突き抜けた。左手に缶チューハイ、右手にリモコン。小鍋を気にしつつ、チャンネルを変える。
一つ、二つ、サンセットトーキョー局に合わせると、ちょうどお目当ての番組が始まったようだった。
ガタン、ゴトン、電車の音が聞こえだす。のどかな自然の中を行く山間の線路の風景、ではなく、思わず、(うわ)と心で呻きたくなるような通勤のワンシーンだ。
小さな箱には、人、人、人。満員電車に揺られ、リュックを前に抱え込む男性が映し出される。
(あるよね、こうなっちゃうと身動きすらとれないんだもの)
そんなことを思いながら、のんきに飲み口に口をつけたまま液晶画面をじっと眺める――はずだった。
「この人、痴漢です!」
手のひらから缶が滑り落ち、乳白色のチューハイがラグに大きなシミを作っていた。

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